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アラ還で迷走中

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有り難し有り難し 13

いつもこちらではお世話になっています。
定年退職まであと少しのアラ還おじさんです。
最近急に老いを感じるようになりました。生老病死の老に苦しんでいます。ここに来てもうこんなに年をとった、と後悔ではありませんが愕然とします。
体力、気力の低下だけではなく、アラ還と言う焦燥感、職場での若手の活躍と焦り劣等感、世の中の動きについていけない、等書き切れません。
実際に定年退職したあとは再雇用制度を選択する予定ですが更に疎外感が強まりそうです。
今のところ家族ともお陰さまで健康面で大きな問題はなく、経済的にも問題ありません。
自灯明法灯明を模索し何を目標にすれば良いのか、生き甲斐にすれば良いのか、まさに迷走中です。
アドバイスをいただけると深甚に存じます。

2023年7月1日 5:43

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

阿羅漢 阿羅漢華、阿羅漢果をもとめる。

花は芽のときも花、未開化の時も花、咲いても花、実が実っても花。そういう生き方に目覚めることが人生の華。
アラサー、アラフィフ、アラ還なんぞは現代人の言葉に縛られた人たちが作り出したものでござる。そういう言葉に縛られたらそういう言葉を生み出した人たちの術中にはまります。誰がそこにネガティブな意味を添えているのか。あなたの眼は今、年齢がない。年齢がないというのは何か。今の眼というレンズはたとえ幼少期であろうが、アラサーだろうが、アラ70だろうが、今のものしか見ていません。永遠に今を見づづける「而今(ニコン)のレンズ」なのです。※禅語…而今 参照
人は今しか生きていない。
今に年齢なんぞはないのです。
笛吹爺さんが90代で100歳になった時のワシの笛の音(ね)がたのしみぢゃと言われる方もおられる。年齢を超える。
たとえ100歳になろうが、今自分が見ている世界は今日の最新とれたて出来立てホヤホヤの世界であるぞ、と。その景色に何の年齢かあらんや?と。

仏教のアラ還は阿羅漢です。
悟りを他人ごとにせず、自分史上、もっとも明晰で曇りのない聡明な心を持つ。
人間という花は毎日開花している。毎日身を実らせている。毎秒毎秒真新しの全自動浄化の華厳の滝なり。
そういう法眼を持つことが阿羅漢として生きる道ための第一歩です。
ふりかえれば、昨日歩んだところなんぞは捨てている。捨て去られている。
オヌシは今、どこに立っているのか?自己に問うことです。
昨日が、昨日が、
明日は、明日は、
老後が老後が…、
今を生きなきゃ今を生きなきゃ、
それを考えちょるそのアタマはどこにあるのか。いつそんなことを思い起こして今日の今の自己脳内に暴動を起こしているのか。
その正体にすら気づかずに振り回されている人間を荒漢という。そんなアラカンでどうするのか。
人間には精神の向上心というものがある。
それが菩提心です。
菩提心をふるい起こして、こんな人生でどうする!と奮起すればアラ還60で出家した趙州禅師のようになる。アラカンも悟りも迷いも地獄も他人事ではない。
全部みな自己の上に起こることである、と。
自分の脳が今何を選択し、何を優先しているのか。
その頭をよりよく、最上ベストに用いるのも自己、今日の今、あなたの脳内心理の一念、一行なのです。
日日是開花。随所に仏のはなさかじいさんとなるべし。🌸発願あるのみ。

2023年7月1日 8:10
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お言葉ありがとうございました。

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