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父への葛藤と神仏に感謝を伝える手段

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父に対する怒りの気持ちへの迷い。
そして神様に対して感謝したいと思い質問いたします。

私は家族四人と実母、五人暮らしです。

母は二年前に離婚しました。
理由は、父の長年に渡るモラハラと虚言癖のせいです。

そんな父から、半年前、急に実家を売ってほしい。実家のローンやその他の借金で首が回らないと言われました。

調べたところ、父の借金が膨大な額で、家は競売にかけられる寸前で、裁判所から立ち退き請求されても従わず、警察署に連行されたそうです。
しかも、20年前に会社を退職した理由はどうやら不正を行い懲戒解雇になってたらしく、狭い業界だったため噂が広がり再就職できず、日雇い仕事で日銭を稼いでた用です。

私と母は、今までの父と歩んできた人生がみんな嘘で騙されてきたのだとそこで知り、今までの人生、全て覆された気分です。

父は結局、家を売却した事で、借金は無くなりましたが、生活保護を受給するしかなくなりました。

私は母と同居するだけでも家計的に苦しいので、父まで養えません。なによりも父本人も誰にも自分の生活リズムを乱されたくないらしく一人でいたいと、いうので生活保護を受けるしかないという結論になりました。

私は、父に対し、あまりに身勝手な上、厄介事には私に全て押しつけ、都合の悪いことはその場しのぎの嘘で煙にまく人で、何一つ信用もできません。

また、最近は激しくお金に執着しており、会えば10分おきにお金をせびります。はっきり言って人外の領域まで落ちたな、という言動や風貌にまでなってます。そんな父と今後関わることもしたくないし、一方、本当にそれでよいのかという後ろめたい気持ちはあります。

また、父は今後、国のお世話になり、父をサポートしてくれる皆様には本当に申し訳なく思います。

また、ここまでに至る経緯のなか、神仏に色々と助けられたような気持ちになってます。 私は無宗教ですが、神様にお礼が言いたいです。どのように神様に感謝を伝えたら良いでしょうか?教えて頂けたら幸いです。

2023年4月5日 15:41

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あの時、何か道外れなことさえなければ本当は良い家族だったはず

まず、あなたのお父さんも社会悪やエゴイズムの被害者なのだという視点も持ってあげたらよいと思います。
人がいわゆる人間世界のエゴ・悪事に手を染める、不正をするというのは実に身勝手なことではありますが、百歩譲ればそういう行いをするようになったのも、何らかの原因・背景があるといえばあるわけです。
たとえば、この世に楽してお金を儲けるような誘惑。ギャンブル、賭博、パチンコや、人の心の隙間に入り込んで投資を持ち掛けたりするような合法詐欺、瞬時に人の人生や多額のお金を間接的に奪い取るような悪徳商法などが世にあふれています。そういうずるがしこい人をだますようなものや誘惑がなければ、あなたのお父さんをはじめ、社会悪の被害者もいなくなり、あなたのような家族の幸せを奪われるようなこともなかったのではないでしょうか。もちろん、すべてが周りの環境のせいであるということではありません。
そういうものがこの今の平成~令和の世になっても多数存在する、今もくならない、取り締まられることもないということ自体がこの世の中はまだまだ不健全で本当の意味で神仏のこころ・精神に通じた世界ではない=そういう宗教的な人が少ないということです。被害者ばかりがあふれるのですから。
神仏に感謝を伝えるには、自分自身も神仏のごとき働きをなす=我を慎むことです。
「私・吾我」という我の心を慎んだ生活をするのです。そうすると祖先や先亡さまをはじめ、今の自分があるのも、先人や天地自然の恵み=神仏の恩恵によって今の自分があるということが身近な生活からよく感じられるようになるものです。
すると、あなたのお父さんも人間世界でいじめられ、心理的に追い詰められた哀れな面にも気づき、父として責めずにいられるようになるでしょう。
もちろん、あなたの家族の安心、平穏を壊してしまう面もあったでしょうから、許せない面は当然あるでしょう。今の堕ちたお父さんをあなたたちが助けようとしても制御不能な面もあるでしょうから、今のように距離を置いた選択こそが最善なのかもしれません。
神仏の視点とは、そういう人間の価値も離れた目線。人が愚かしいことをするのも過去からの必然の道理。お父さんの先先…先代や、先人たちのDNA、教育、環境とのかかわりによって形成された精神性、人格、慣習…。その結果が今のお父さんなのでしょう。10の内、数割は憐れむべし、哀れむべし。合掌

2023年4月6日 4:01
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

コメント頂きありがとうございます。

>あなたのお父さんも社会悪やエゴイズムの被害者なのだという視点も持ってあげたらよいと思います。

確かにそういう視点を持てればよいのですが、私の未熟さゆえか、まだまだそういった考えにまで到達できるようにはなれないような気がします。ひょっとしたら一生涯理解できないかもしれません。

ただ、「私・吾我」という我の心を慎んだ生活をするというお言葉。

私は、性格的にもですが、海外での生活での体験もあり、自分の考えをしっかり主張することが大切だと思っています。
しかし、そういった考えが、時に我を慎むといった心を蔑ろにしていないか?といま内省しています。

お言葉を頂きありがとうございます。

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