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仕事に心が動かない時の行動の起こし方

回答数回答 1
有り難し有り難し 6

昨年鬱を発症しました。
プライベートだと大丈夫そうだったので、部分的に仕事を復活しましたが
仕事になると心が痛くなり、どうしても頭が働かず、気力が湧かず
行動に移せないでいます。
しかし、何もできないわけではなく、
自分が楽しいと思えることを勉強する・調べることには意欲が湧くし
楽しいとも思えるのに、
やらなければいけない仕事となると、急に頭が働かず動けなくなります。
人と直接コミュニケーションをとることもできなくなり
電話に出ることができません。

鬱になったことで、恐れを抱き逃げているだけのようにも感じます。
元のように仕事に意欲的になるために、
今心がけるべきこと、とるべき行動、考え方や捉え方を
どのようにして過ごすべきでしょうか。

2023年4月14日 17:57

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

保身の意識の加工法

人間は誰にでもわが身を大事にしたい気持ちがあります。
防衛心理、保身の心理、わが身をかわいがる意識、自分の安定を求める心理、自分の安定状態をキープしたい心理などがあります。むしろ、それが一番メインで動いている面もありましょう。
その働きを否定することはできませんので、その働きを上手に利用する。
今、自分が仕事したくない、気持ちが高まらないならば、それも身心の正直な反応ともいえましょう。
寒空でどしゃ降りの雨の中、わざわざ身を濡らして喜んで外に行く人は少ないものでしょう。
ですが、そんな寒空のどしゃ降りの雨のなかでも親がわが子を守るためなら、あなたが大事な人を守るためなら、大事な物事を守るためならば、人はその困難や苦痛、苦境をものともせずに飛び込んでいけるようにもなるものです。
人には怒りや不安や恐怖心がありますが、私はそれを活用して今日に至っております。
学生時代は死にたくなるほど元気がなかったですが、怒りのエネルギーで立ち直りました。こんなことで死んでたまるか!🐔こけー
不安や恐怖心はその不安や恐怖心を根絶するためにこそ立ち向かいました。こんなことで毎回わが心を窮地においこんでなるものか!(# ゚Д゚)
人は、わが身を守るためにだけに生きているわけではないという視点から歩みを進めましょう。もっと大事なことがあれば人はわが身を捨てて、あるいは今まで自分が大事にしていたことなんぞポイっと捨てて、それ以上に価値のあることのために行動できるようにもなるのです。
よって、あなたに必要なことは、その価値です。
ただし、自分という意識が強くあると、その自分意識に基づいた自分ルール通りにならないときに心がお辛くなることが生じてしまいます。
よって、今日の天気も自分の思い通りにならず、窓の外を見渡せば、すべてが自分の思っていることと異なるトリッキーで予測不可能なことばかりなのですから、わが身、わが心もそれと同様に、ああ、自分の思い通りにはならないものなのだなぁとわが身わが心の本当の保身の声に耳を傾けてあげることです。今、無理して急に職場完全復帰を志そうとしても、おやおや、体がどうもいうことを聞かんなぁというときは、そっちの方を大事にしてあげるべきです。やけど一つ身にあれば、その傷は痛みが治まるまではどうにもなりませんからね。どうぞ、お大事に焦らず親しみながら進んでください。

2023年4月15日 8:14
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下ご住職

この度はお忙しい中、お言葉をいただきましてありがとうございます。
今はそのような言葉を頂戴すると涙が止まらない状況で。
今はまだ心が弱い状態だなと痛感しております。
今の自分の状態と受け止め方、今後の心の置き方や今後の心の置き方など、頂いた言葉を踏まえた自分のパースで前に進んでいきたいと思います。
まさに今は自分以上に大切に思える存在が無いので踏ん張る事ができないんだと理解する事ができました。仕事をしたい気持ちと自分の感情との狭間ではありますが、自分の心の声をしっかり受け止めながら、進めるペースで前進したいと思います。有難いお言葉の数々。ありがとうございました。

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