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嫌な記憶をフラッシュバックさせない方法

回答数回答 1
有り難し有り難し 18

タイトル通りです。

折に触れて、嫌なことを思い出します。
具体的には…
・前職の先輩社員からの暴言(これができないと逆に何ができるの、所詮〇〇県の出身でしょ、等々)
・母との会話(私はパステルカラーが好みだが、「そんなくすんだ色嫌い」と否定)

そんなこと受け流せばいいじゃん、という類のアドバイスは辛いです。
それができなくて悩んでるので…。

よろしくお願いいたします。

2023年4月30日 13:14

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

南無フラッシュバック大菩薩

私だったらこうするべ視点からの回答です。
フラッシュバックについて
(´-`*)
①脳内ボトケからのミッションだべ説
よく思い返すことでも、負の項目でなければフラッシュバックとは言わんでしょう。思い返される色んな思いには、あらかじめ良い悪い・善玉悪玉の区別もラベルもありまちぇん。よって、フラッシュバックというのは💀「🚫あの問題👺をキサマはどうクリアするのか!未来へ向かって生き続ける地球上の一生命として、今後より強く生きるためにオマヘは乗り越えがたいあの問題を、さぁ、どうするのか!答えよ!解いてみよ!」という脳内ボトケからのミッション・指令。おそらく自分の中でその出来事は未処理・未消化だからこそ、ちゃんとかみ砕いて消化しろやという、オナカイタイヨ信号としてでてくるのです。脳内仏からの宿題と思いましょう。やれやれ。
よって、フラッシュバックが出た時冷静に。ダメージにならないよう向上的な精神でクリアー、処理するのみ。より高い人間性&私的でない主観なしの公的視点で無毒化させるんだべよ。たとえ嫌な人の記憶や悪意も、動物の世界であれば弱肉強食。50m上からの仏目線で冷静に公的に本質を見抜くのですだ。
過去は変えられませんが、過去に対する評価は変えられますだ。あれは嫌だったぁ⤵的なショボン評価で終わらせているから心がそれを負ととらえます。肥やし💩学びにチェンジ!
(´-`*)
②猫背を正すために現れてくるだ説🦐
フラッシュバックは背筋が曲がっているから出てくるだけです。ホンマカイナ
出た時点で3秒以内にエビ反りイナバウアーしてください。イメージはマトリックス。そもそもフラッシュバックなんて過去の記憶。過去の一念。過ぎたこと。そもそも変えられないこと。相手にするべきでもなんでもない脳内未消化残りカス💩いたずらに心を費やせば心も疲弊します。荒川静香もキアヌ・リーヴスもビックリなイナバウアーでかわすのみ。そんでもって猫背を矯正。埼玉県民ならそれで治る。 
゚゚┌┴o゚゚゚゚°マトリックス🐈?
(´-`*)
③それフラッシュバックじゃなく単に過去の嫌なことが思い返されてるだけだべ説
夢だってナンデヤネンなことを勝手に思い起こしているもんですわい。発生時点では人畜無害。発生した時点で何でもかんでもフラッシュバックじゃありません。ただの一念。触れぬ!扱わね!取り上げぬ!

2023年4月30日 15:06
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました。

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