性善と仏性、性悪と救い
ずっと日蓮聖人と法然上人、親鸞上人のことが頭から離れず、キリスト教を勉強しながらも反芻していました。
人の本質を仏性とすることを日蓮聖人は言われてたと思うし、窮地に追い込まれても 法華経を支持する神仏を信じることで内に起こる恐怖や不安からくるお気持ちと闘われたと思います。法然上人、親鸞上人は、法華経を目指しても自分の力ではなれない悪人と悟ることで仏の光が差し、念仏によって阿弥陀様に救われる。とされた気持ちもわかります。
悩んだあげくキリスト教を勉強し始め、生きる軸としようと生きています。
キリスト教は、自分の悪を知り、弱さを知り、懺悔を、神の御心とキリストを通して贖罪をし、罪を作らない知恵を学び祈りとするのだと思います。父が学会員だったり、祖父が浄土真宗ということで里心があるのかもしれません。地獄は人間が作った観念だと思います。神仏は地獄を作ってないと思います。時々、御布施や献金のお願いばかりして、本当に神仏を必要とした老後や病気や貧困になった時は自己責任と見放すのがお寺や教会かなって思い、まあ神仏は見放しませんよって説かれても そうだよねって思う。ちょっと信仰心も冷静になる。書いてる内に落ち着いてきました。結局、介護士になり、人の生き死に寄り添いケアをする仕事に神仏をおき、自分の命をつなげるお金をいただいていることに感謝と献身することを神仏に導かれたと思います。いろいろ悩んでいた頃の以前の履歴を恥ずかしく懐かしく想いながら、自己の命と介護させて頂く命が神仏に救われていくように祈り、頑張りたいと思います。相談したかったことは、私は許され生きていけるのかということでした。
大失恋をしたような気持ちでしたが書いている内に救われていると思えてきました。ありがとうございました。
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だから人生やめられない
こんにちは。おそらく「お初にお目にかかります」ですね。
お生まれ、お育ちになったご縁から、ご自身でさまざま学んで来られたこと、そしてお仕事の場面で、体験を通して気づかれたこと、そういった様々が一致してきたというか統合されてきたのかもしれませんね。
お釈迦様は亡くなる前のお説教として、「自灯明法灯明」と仰いました。お説きになってきた教えと、自らを燈として生きなさいと。これを今こそあなたにお贈りしたい、あなたのために説かれたのではないかとさえ思って、ご紹介します。
学んで来られた、さまざまな「おしえ」と、人生から得た気づき。それが齟齬なく納まったのが、今のあなたではないかと感じます。
もちろん、あなたが変わっていく(加齢など)につれ、今のフィット感は変わっていくでしょう。しかし、「どうすればフィットするのか」の糸口を、あなたはすでに掴んだのだと思いますよ。
そうそう、「私は許され生きていけるのか」ですが、誰が許す主体なのかお書きにならないと、お答えは出ないと思いますよ。坊さんから見れば、答えはもちろん「生きていけます」ですがね。
質問者からのお礼
ありがとうございました。
たぶん人は自分の罪を相手に見ると相手におき、高みに行こうとするし、相手の罪を自分の罪に感じると怒ったり、裁いたりするんだと思いました。
だけど 神仏に従事でいるかたは、罪をおかす背景を理解することで正しい道に導こうとされるのだと思います。
それが今か、死ぬときか にしても同じことをされるのだと思います。
福祉的な支援は社会的役割としてあるのだから、お寺や教会は、癒し的な役割でいいのかもしれません。
人の苦しみをよく知る仏教や人の罪を教えるキリスト教はどちらも必要と思います。