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出家するから付き合いえないというのは

回答数回答 1
有り難し有り難し 23

5歳ほど年齢が離れている30代後半の男性に
勇気を出して告白をしたところ
「出家しなくてはいけないので」と断られました。
お寺の女性か理想の女性を待ち続けたいそうです(本人は寺の出ではありません)。

それ以上、なにをいうこともできずに
つかずはなれずの関係が続き、かれこれ一年が経ちました。
脈が無いのはわかっていても、離れることができません。
また、相手も出家をする気配はありません。

先日、相手が陰口で同僚に私に告白されて断ったこと、こんなの選ばないと
言っているところに出くわし、それからというもの
相手に話しかけたり笑えなくなってしまいました。

離れようとおもったこともありましたが
それでもできるのならこの気持ちを大切にしたい気持ちがあります。

もう一度、向き合うには今、何をするべきなのでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

さっさと明らめた方がいいですよ('ω')ノ

その男には愛を感じませんね。
僧侶としてもペケでしょう。
あなたが誰を好きかとかじゃなくて、あなたを愛してくれる人を探した方がいいです。
自分が誰を好きになるか、誰を好きでいるかなんて、アイドルの追っかけとさほど変わらないものではないでしょうか。
そのアイドルがこちらを振り向いてくれなければ、脈はないのです。
おまけに、そんなドライな関係では、誰も救われません。浮かばれません。
今何をするべきか。
あなたが出家するべきです。
出家とは、頭を丸める、僧侶になるということではなく、自分のマイワールドから抜け出すことです。
思考や妄想、自分の悪習慣、ネガティブ地獄、無限ループ煩悩、そういう自分を苦しめる思いの世界から抜け出すことです。
坐禅会に参加なさってください。
自分がどれだけ思考まみれか、よく判ると思います。
そして、それをいつまでやっていても救われないならば、そういう在り方では楽になれないのだということを気づいてください。
あなたの心は今、執着しています。
彼に対して執着しているようですが、自分は、本当は、本当は、本当は、自分と彼との理想的なマイストーリーにしがみついているだけなのです。そこを自覚し、自ら主体的に幻を滅する、幻滅をさせるのです。私と彼との夢物語は、最初から私の独自のストーリーだったのだということを悟り、誰も責めることなく、自分のストーリーから出家して、帰ってきて下さい。(^<^)
一度、そこから抜け出しさえすれば、あなたの居場所は無限にあることを感じられるようになるでしょう。
もし、お一人で抜け出せないようでしたら、坐禅会にご参加ください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

アイドルのおっかけ(笑) なるほど…!
うっすら自覚していることを言葉にしていただきありがとうございました。
かれより先に「出家」しながらがんばってみます。

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