脱皮?成長?踏み台?
職場の先輩が過去の自分の感情や経験を対人において説教し、悪者に仕立て上げ、高みにいこうとします。
相手のほうが知識も対人関係も良い形で積み上げていても全否定です。
横取りして蹴落とそうとします。
みんな前の人との続きだから入れ替えられてめんどくさいし
リセットして始めるのに必要なのが祈りや題目や念仏や真言になるのかなって思いました。
話せる場所があって受けいれてくれる場所があって自己受容があると思いました。
介護施設で働いていますが、お年寄りは介護職員を観察されて自己再生されている。介護職員との人間関係の構築を自己再生の方法とされている。
私は心理学や真理を学び
日蓮聖人や念仏やキリストを考えることで自分や相手の不浄をリセットして正しい方法で自分との関係をつくろうとして、嫌な相手も自分の一部に入り込んでいることに気付く。
闘いモードで食ってかかってくる奴ら
信仰が癒されるものとして求めてみたけど
信仰ある人は、大変だけど永遠の成長ある人なのだと思いました。
慈悲を感じ、自己受容できて真理に気付き、また正しく自己受容するときに葛藤があり成長がある
と 書いてる間に気付けました。
職場の先輩のことも成長過程なのだと思って理解して私の成長としたいと思いました。
ありがとうございました
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人の振り見て我が振り直せですね
拝読させて頂きました。
あなたの周りの人へのまなざしと人の成長についてお聞かせ頂きました。あなたがおっしゃる通り人は常に変わり続けてそれぞれの方法で気づき学んでいるのかと思います。そしてあなた自身もその様な姿を見て学んでおられるのかと思います。
その様に人をおとしめて傷つけることはやはり悪行です、その人に戻っていくことです。その人が気づいて心から反省して神仏に懺悔し、心から謝り、その様な悪行をしない様にと神仏に近い、日々心掛けていかなければなかなか成長することはできません。
ですから人の振り見て我が振り直せ、ということかと思います。
あなたがその様な悪意や悪言や悪行をなさることなく、善意や善言や善行を進んで行い、毎日を心清らかに安心なさって生き抜いていかれます様に切に神仏に祈っています。至心合掌
質問者からのお礼
ありがとうございました。
人への好き嫌いが前にでてきていました。好きだと良い風に受け止め、嫌いだと悪い方に受け止めるのが人でした。
お釈迦様のことを思えば、人は なんのために生まれ生きるのか を 考えることができました。
戒律で人を差別したり罰したりするのでなく、慈悲と智慧で人を救おうとされたことが一番でした。
人は 愛を癒し、智慧を持って、昇華することが生きることなのだと思えました。
それを法蓮華と言われてるのかなあと思いました。
時代が変わり、社会的役割、背景が変わり、正しくお釈迦様を伝えることが大変なことを法華経が言われてたことなのかも とも
やっと理解できました。
ありがとうございました。