自分にとっての正しさが分からなくなった
自分は趣味でイラストを創作していてSNSによく投稿をするのですが馬が合わないと感じたら喧嘩にならないようブロックして拒絶したり、相手からされていると分かった際は不快感を引きずらないように同じように対処しています。それをたまたま何かの機会で音楽をやってる親友に話したら「それは良いやり方とは言えない。嫌われる事だってあるかもしれないがインターネットの中とは言えそんな事ばかりしてたら人間関係がギクシャクするし、最後は誰も君の作品なんて見なくなるよ。」とキツめの注意をされました。
確かに彼の言ってる言葉は理解出来るし以前の自分はそうでしたがそれでトラブルが起きたり人づてで陰で悪口を言われたりしてるのを知ったりとストレスが貯まる事が多く、だったら此方も同じように完全に関係を断ち切って忘れて自分の為だけに時間を使った方が賢いし有意義だと思ってやってきてたのでそう返したら続けて彼が言った「君も誰かに好かれたいと思って創作をやってるのにそれで敵を自分から作ってどうするんだよ。(強めに叱られました)」と言う言葉を聞き自分が本当に正しいのかどうか自信が揺らいでしまいました。
嫌われるのは仕方ないと思うし100%好かれるなんて無いし悪意を向けられたら拒否しても構わないし、それに振り回されたら心が乱れてしまって何も出来なくなるからと対処してきたのですが………
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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論理と感情
論理的な意見は言葉はきつくても内容で有益か無益か判断できますが、それで、無益なら時間の無駄なので切ってもいいのですが、、、
感情の場合は、好きでも嫌いでも、人それぞれなので、ウマが合わなければ離れたほうが、これまた時間の無駄にならずに済むと思います。
感情の場合の仏教の向き合い方は、慈悲(愛ではありません。愛は仏教では執着です。)でやっているか単なる好み(好き嫌い、愛憎など、自分の主観ですから自分の執着です。)でやっているかで有益か無益か判断できます。
相手のための慈悲の感情なら、聞く価値もあり、意味もあると思います。自分では慈悲で相手のためのつもりでも、本当は好みで言っているだけかもしれません。最初から自分の好み・価値観で相手と語るなら、合うか合わないかだけで切ってもいいような気がします。
以上はネットなど匿名の責任を感じる必要のない人々との関係です。
対面では、相手との関係性によって、例えば家族なら、感情だけだと分かっていても、少し付き合って、お互いの感情が収まるようにする必要はあります。当然、基本は慈悲の気持ちで、です。
分野は違えど同じようなことをしているご友人の場合は、ご自分の対処の仕方を、それがより良いと思ってあなたに勧めてくれたようです。慈悲の気持ちからでしょう。その場合は、私はこう考えるんだ、などとお互いに論理と慈悲の気持ちで話を深めてもいいかもしれません。
なんとなく感じるのは、音楽と絵の表現方法の違いが考え方にも出ていないかということです。音楽はすぐ消えるもので、保存もできますが、その場の生で、聞く側と一体感があったほうがいいでしょう。一方の絵は、製作中は自分で集中して、あとから作品を人が鑑賞する形でしょう。相手方との関わり方がそもそも違うから、作り手の考え方も異なるのではないかと思います。
ちなみに、私は発表原稿を書いて学会で発表し、あとで論文にまとめます。発表原稿やあとでなるべく論理的に説得力あるように書くのは好きです。間の、現場で発表して、質問や意見を聞いて受け答えする、というのが、少し苦手です。音楽よりは絵画タイプかもしれません。
絵と音楽、そのくらいの違いがそもそもあるうえでの友達付き合いですから、見方が変わって学ぶことが多いと思います。そのうえで、自分のやり方を持つのが表現者の魂の見せ所だと思います。
質問者からのお礼
ありがとうございました。改めて親友とこの件について話した所、君の言うことを聞いてると気持ちがギスギスしてるんじゃないか?て思ったのと自分から敵を作りに行ってるんじゃないか?と心配したからだと言われたのでまさに慈悲心からの心配だったようです。なので巧く自分のやり方と組み合わせたいし親友はその優しさからか辛い目に遭ったりする事も多いから助けたいです。