信仰について
はじめまして。
30代、男性です。
10代の頃から漠然とした
生きる不安感があり、それを希求する上でたくさんの宗教学やカウンセリングの勉強などをしてきて現在に至るのですが、この『道』だと言う手応えがないです。
実際に一つの教えを研鑽していけば通ずる道は同じだと思うのですが、語っている方に違和感がでてきてしまいます。
たくさんの宗教家やその筋の方(一般的なカウンセラーやスピリチュアリスト)などにお会いしてきましたが、凄く懐疑的になってしまう自分がいます。
それでいて信仰心のようなものは非常に強く、唯一の趣味は神社などに一人で行ってその土地の空気感などを感じることです。
もちろん、信仰や信心などは他と共有したりするものではないですが、どこかしら独学的に勉強している部分もあり他人と共有したり
する必要性があるのかなと感じてしまいす。
何かアドバイス頂けたらありがたいです。
宜しくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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アドバイスなんて全くないですが。
はじめまして、さら様。私の信仰の話をさせてください、スペースをお借りします。私は二人姉妹の長女で跡継ぎとして育てられました。とても有り難いことでしたのに、その時はお寺がイヤでイヤで仕方がありませんでした。家族のことも嫌いでしたから。短大を卒業したら、無理矢理に僧侶の専門学校を受験させられて。強制的に得度もしてという流れになりました。そこで出逢ったお坊様のお寺に嫁いでしまうという、有り得ない親不孝をしました。月日は流れ、私は産後うつ病を患いました。大学病院に入院しましたが、脳出血の可能性とCTに運ばれて、失神、硬直などで死の恐怖を感じました。私はなぜこんなに生きづらいのだろうかと必死で心理学を学んだり色んな心理療法や勉強会に参加しました。ある時、地元で評判のお坊さんに質問をしたら「そんな質問をするのは聴聞が足りないからだ!」と跳ね除けられました。同じタイミングで違うお坊さんにも質問をしたら「そのような質問ができるのはしっかり学んできた証拠だからだと思いますよ」と言われて、初めて努力が認められた気がしました。
学生の時に比叡山で酒井雄哉様の法話を聴いた時もショックを受けました。何回も千日回峰行を満行された大阿闍梨様。自分の手柄にされることもなく、佛様のお陰でしたと「行き着くところは他力本願」と結ばれたのです。私は頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けました。
長くなってしまいましたが、私はお念仏の教えが全てウソで架空の話で偽物の学問で、地獄に堕ちても構わないとさえ思っています。それは、今生でお念仏の教えに出遇えたことが心から歓びであり感謝しかないからです。今もたくさんのお薬を服用したり、いつどうなってもと感じています。無理はしないで出来ることを楽しみながらと思っています。私が偶々持ち合わせていたのは、好奇心、探究心、行動力でした。
さら様に伝えることがあるとしたら、抗わず、小川を流れる笹の葉の舟ようにいれば、逢いたい人にも会えたり、信仰や信心が分かる(思考の理解ではなくて、自然と溢れる涙が伝えるような言葉に出来ない感覚)あるのではないかと思います。それは勉強だけではなくて、清掃やボランティア活動、恋愛、労働も仏教に繋がっていたと振り返り思います。結局、諦めないで継続したら日々、色々と変わりますものね!貴重なスペースを本当にありがとうございました。
南無阿弥陀仏