母の自殺(母子家庭一人っ子)
1ヶ月前に最愛の母を亡くしました。
母は視覚障害を抱えており、サッカーボール未満の視野しか無く中心以外のものは何も見えず、精神障害(統合失調症)もあり(自殺は精神科で処方された睡眠薬を多量摂取したことによるもの)、最近になって発達障害とも診断されました(本人は相当ショックを受けていました)。
しかし母は人生の諸問題を障害のせいにしたくは無い人で、白杖を持つことに抵抗したり、1人で外出したり、普通の人と同じように生きようとしていました。
そんな色んなものを抱えてきた母ですが、私が9歳の頃から16年間お互いを唯一の家族として一緒にやってきました。
母は幼少期に両親から虐待を受けており、また学校でも虐められていた影響で人間関係の構築に難があり友人もおらず、上述の病気のせいで仕事をすることもできず貧困家庭でした。
また親兄弟との関係もギクシャクしたり和解したりを繰り返していたので完全には頼ることはできず、母にとって本当に信頼できる家族は息子である私だけでした。
そんな母ですが愛情だけは沢山注いでくれたので、私は家庭環境から考えれば想像できないほど真っ当に育つことができ、今では経済的にも余裕ができ、結婚を考えるパートナーとも出会うことができ、私にとってここ1,2年は順風満帆と呼べる時代でした。
私たち親子は本当に何でも話し合う仲で、月に1~2週間は一緒に暮らしていましたし、喧嘩も多かったですが死ぬまでずっと仲は良かったです。
なので母が最後に自殺を仄めかすLINEが夜中に唐突に送られてきていることを翌朝に見た後に母の自宅に駆け込みその光景を見て、その後数週間は一生分という位涙を流しました。
自殺の直接的な原因は色々あるのですが、根本的な理由は私が今の彼女との結婚を示唆し、母が「1人ぼっちになってしまう」と寂しさを募らせたことだと思っています。
私は今月からキャリアアップして新しい仕事を始めたのですが、仕事中にふと母のことを思い出してしまい、全然前向きになれません。仕事以外の事でも何も本心で楽しめなくなってしまいました。
この先、どういう考え方で生きていけば私は以前のように強く前向きに生きれるでしょうか?
どんな未来を想像しても「母が居たら...」と考えてしまいます。
このままだと弱りきった心のまま、後ろ向きな人生を生きる未来しか見えないです。。。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ご相談、読ませていただきました。私は「自死・自殺に向き合う僧侶の会」(https://bouzsanga.org/)という超宗派の僧侶が集まって活動している会に所属しています。
毎月築地本願寺で自死遺族との分かち合いをしています。同様の辛い体験をされた方々がなかなか人に話せない思いをそれぞれが話し合う事で亡き人との向き合い方を模索したりご本人の気持ちを前向きにする方向性を見いだしてもらえるような活動をしています。このhasunohaでは一回の回答をするに留まる形式ですから、とても一回だけではあなたのお気持ちをサポートできないと思い最初にご案内させていただきました。このような会も是非お考えください。あなたにはこれから彼女さんとの長い人生があります。あなたには現在の状況を乗り越えて幸せになって欲しいと心から思います。
お母さまは、とても苦労してあなたを愛情をもって育てられたのですね。その最愛のお母さまが自死されたことを想像するとあなたのお悲しみは量り知れないものと思います。お母さまは今まで「人生の諸問題を障害のせいにしたくは無い人で、白杖を持つことに抵抗したり、1人で外出したり、普通の人と同じように生きようとしていた」と努力をされていた。そして、「愛情だけは沢山注いでくれたので、私は家庭環境から考えれば想像できないほど真っ当に育つことができた」とあります。
お母さまはとても真面目で人生に真剣で息子さんのあなたを本当に愛していた事が伝わります。そんなお母さまが自死されたことはあなたにとってあなたの人格を変えてしまうかも知れないほど大変なことだと思います。
特にあなたは、お母さまの自死の原因をあなたが結婚されて一人ぼっちになってしまうからとお書きです。なおさら自責の念を感じてしまいますね。確かにそれも一因かも知れませんがそれ以外にも多くの要因が重なって起きてしまったと思います。そして、お母さまはあなたがこれほど悲しみ苦しむことを想像出来ないほどご自分のことでいっぱいいっぱいになっていたのだと思います。誰にも防ぐことはできなかったのだと思います。
私はあなたがお母さまの残りの人生の分まで幸せに生きることがお母さまへの一番供養だと思います。あなたを応援します。
合掌
質問者からのお礼
大変親身に答えて頂きありがとうございます。
私もとても質問投稿の1000文字の文字数制限の中では自分の今の心の中を表現することは難しかったです。
ぜひ今度足を運ばせて頂きたいと思います。
失ってからその本当の大切さに気づくという愚かさが悔しいです。
きっとこんなことが起きなければ「ああしていればこんなこと起きなかったかな」などと予防措置をここまで深く考えることも無かったでしょうし、意味の無いことだとは分かっているのですが、前を向こうとしてもどうしても時折死児の齢を数えるように色々と考えてしまいます。
いくつもの要因が重なったのは本当にそうだと思います。
そして今までも自殺するようなタイミングはあり、あの時よりももっと納得のいくタイミングもありました。
しかし今回はそのタイミングでは無かったと感じる、本当に僕も母も人生が好転し始めている時期だったので、余計に「なぜ?」という思いと納得できない気持ちが悔しさや怒りや後ろ向きな気持ちがないまぜになって自分の中に留まり続けています。
僕はあの時まで、精神的な強さと前向きな考え方しか持っていないような人間でしたが、今では仰る通り人格が変わってしまったかのようなレベルで弱気で後ろ向きでその場に立ち止まり続ける人間になってしまいました。
===================================================
自殺というのはどんな理由があっても、貴方を愛してくれる人が居る限りしてはいけません。
自殺すれば、貴方を愛してくれている大切な人たちが貴方の想像を遥かに超える精神的なダメージを追い、とてもではないですが貴方が望むような「幸せに生きて欲しい」という願いなど実現不可能になるほど精神的に再起不能な状態に追い込まれます。
僕はこれから何年も、あるいは死ぬまでこの深い深い傷を可能な限り目を背けて頭の隅に追いやり続けながらでないと自分の人生の明日を生きることはできないでしょう。
とてもではないですが今まともに向き合えば、私の人生は永遠にあの日で時間が止まります。
本当に大切な人だったので忘れたくはありませんが、残酷なことに母を忘れることでしか、私は今前へ進めません。
もしいつか、時間が全てを癒し、解決してくれる日が来ることを切に願っています。
時間しか無いと思います。この深すぎる出口の無い海から抜け出すには。
人はどんな理由があったとしても最大限生き、前進する努力をしなければなりません。世界には無数の負の側面がありますが、それと同じくらい正の側面があります。
大切な人との別れもあれば、また新たな大切な人との出会いもあります。
私がこの世に生まれ落ち、母に出会った時のように。
このような苦しみを負ったからこそ、そこから学び、成長しなければなりません。
このような苦しみを受け止めて尚、前を向こうとする強さを先天的に与えられた人間は、それに感謝し、故人の分まで強く考える努力をし続け、故人の死に意味を見出し、自分の愛する人を自分が負ったような傷を負わせないために自らは絶対に自殺などしてはならないという絶対的な信条を持って強く生き続けなければなりません。
私の幼少期の母からの教えは「他人にやられて嫌なことは自分もしない」でした。
身勝手なことに私にはそれをやった母ですが、私は絶対にそんなことはしないことを自分自身に、母に誓わなければなりません。
悲しみの連鎖は生き残った人間にしか止めることはできません。
世代を超えてこんな傷を負う連鎖を繰り返してはなりません。
生き残り続ける強さを持った人間は、それを与えられなかった人たちの為にも、その意思を持って生き残り続ける使命があると思っています。
これは私たちの運命です。
神は残酷であり、世界は時に苛烈な十字架を課してくることがありますが、人間は根源的に不平等なものです。
自身の運命に不平を嘆いて後ろ向きに生きたところで、自分ではどうしようもできない理不尽な神の領域に魂を殺されながら、残酷な時の流れに死ぬまで呪縛され続けるだけでしょう。
この運命を受け入れて尚、前進し続ける意思を持って強く生き続け、死んでいった人たちの生きた意味と自分が生き続ける意味を世界に問い続け、この世に何らかの形でその意味を残していこうとする内発的な正の十字架を新たに自分を課し、あの日から抜け出して新たな一歩を踏み出しこれまでとは違った自分の人生を生きる勇気を持たなければなりません。
それが、この残酷な運命に抗う唯一の術だと思っています。
人はいつか必ず死にます。
だからこそ人はこの世に生まれ落ち、自分の意思で自らの生死を決められる幸運に恵まれている以上、それが叶わなかった全ての人たちのために、どんな理由があろうとも生き続ける努力を最大限しなくてはなりません。
それが今生きている人間の義務であり十字架だと思います。
そしていつか死ぬと分かっているからこそ、無為に時間を過ごしてはならないのです。
生きることを許されなかった人たちが奪われた1時間、1日、1ヶ月、1年、10年、... を大切に生きてください。
自分が生きる時間に意味を見出し続けてください。意味を与え続けてください。
これは生き残った人間にのみ許された尊い営みであり、これが本当の意味で「生きる」ということなのだと思います。
生きることは難しい。恐らく「死ぬ」ことの方が簡単なんだと思います。
死の本当の意味を理解しそれを意識した時、「生きる」ということがどれほど困難で、尊い営みなのかを理解することができる。
「生きる」という選択肢を選びたくても選べなかった全ての人たちのためにも、それを選べる幸運に恵まれた全ての人間は「生きる」努力をすべきなのです。
本当の意味で生きるということは、誰かを本当に愛するということは、強靭な精神力が要求されます。とても正気ではいられない局面も人生の中であるでしょう。
しかしそれでも正気を保ち明日を迎える勇気と強さを持ち続けるのです。
本当に死後の世界なんてあるのか、この世界の誰にも分かりません。
死んだ人たちが本当に何らかの形でこの世界のどこかに存在していて、自分を見守ってくれているかなんて、本当の正解は誰も知らない。
線香をあげてりんを鳴らして遺影に話しかけたところで、本当にその言葉が届いているかどうかなんて分からない。
その答えは自分の心の中にしかない。
生きている人間の中にしか生まれない。
だから全てを無にしないために、生き残った人間は生き続けなければならない。どんな理由があっても。
自分の中に答えを宿し、意味を問い続けるために。
死んでいった人たちを無にしないために。
自分が本当にその人を愛していたのであれば、その愛する人を完全に死なせてはならない。無にしてはならない。
その人を愛する気持ちは、記憶としてこの世界に留め続け、自分の心の中に宿し続けるのが本当の「愛」だと思います。
死という楽な道を行こうとするな。
生き残って困難な道を進め。
貴方にはその道を選ぶことができる力がある。
↑今自分が思っている自分自身に対するメッセージも自分に対する備忘録として残させて頂きます。
私を含め、これまでに、そしてこれから私と似たような経験をされる全ての方が、いつかこの深い深い苦しみから救われ、前向きに力強く未来を描ける日がやってくることを切に願っています。
生きてさえいれば、どんな場所にも、幸せはあるはずですから。