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最低なことをしてしまった罪と向き合うには

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昔、根暗な私は高校デビューをしたくて無理に明るくしてました。
一緒にいて楽しいのは大人しい子達でしたが、クラスの明るい子達がその子達のことをからかっているのを見ると「あの子達と仲良くしたら高校デビューできないし周りから笑われる」と変なプライドのためだけに、一緒にいた子達を避けていました。
クラスで浮いていた友人に対しては「貴方と相性が合わない」と突き放してしまい疎遠になりました。
結局私は高校デビューはできず、ほぼ一人ぼっちで過ごしました。
その時に初めて自分が友人にしてきた酷いことと友人の大切さに気づきました。

それでも周りの友人は優しい子ばかりで、クラスが離れても私と仲良くしてくれました。
当時は「仲良いからもう気にしていないんだ」と勝手な思い込みから、私は卒業まで謝ることができませんでした。

社会人になってその子達との連絡はなくなりました。皆外では平然と振る舞ってても内心は凄く傷ついていたかもしれないと今になってやっと思います。

最近「甘やかされてきた子は、自分が何しても嫌われないという根拠のない自信をもってる」という記事を見て、自分がしてきたことを改めて思い出しました。

今更連絡して謝っても「突然何?」と言われるだけなので、この罪を一生背負うしかないです。友人は今も心の傷が残っているかもしれないと思います。

「いじめた側は忘れるけどされた側は一生忘れない」の言葉通り、昔私をいじめていた子に偶然会ったとき、彼らはいじめのことを忘れてました。その時「こっちは今も覚えているのに?」と怒りを感じました。
それと同じく、私のかつての友人達も、↑の私と同じ気持ちになってるかもしれません。

また、私をいじめていた子たちが幸せそうなのを見て酷く恨み、同時に私も「高校の友人達のために幸せになってはいけない人間なんだ。最低人間は幸せを感じてはいけない」と思います。

呪いで有名な神社で私の悪運を祈って呪ってるかもしれない、という不安もあります。
実際に友人が「あの子ブスのくせに幸せなんてむかつく」という嫉妬心で、呪いが有名な神社へ行きました。

犯罪のニュースで「加害者がどれだけ贖罪をしても一生許されない」という意見をたくさん見ます。
それと同じく、私みたいな自己中で最低な人間も幸せになってはいけないのでしょうか。どうやってこの罪を償うことができるのでしょうか。

2023年10月29日 13:53

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お釈迦様は言いました。
「過去に犯した過ちを繰り返さないこと。
過去に犯していない過ちを犯さないこと。
過去に行った良い行いは繰り返すこと。
過去に行っていない良い行いを行うこと。」
私たちにできることはそれだけですよ。
罪に感じている気持ちは反省材料としてこれからも背負って幸せになれるように前向きに生きていきましょうね。

2023年10月29日 16:21
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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

自分の弱さと他人の弱さとで共鳴。共通性・つながりを見い出す。

陰キャ陽キャというものが最初からあるのではありません。
リード、フォローという関係が最初からあるのではありません。
この自分のキャラ、働きは全ては「関係性の中にある一時的な作用」です。
たとえば
Aさんに対しては控えめ。
Bさんに対しては強気。
Wさんに対してはフレンドリー。
Zさんに対してはぺこぺこ。
人によって態度は変わるはずです。
自分という存在がただ一つあるだけでしょう。
この自分という存在が相手によってキャラが変わる。
無限の作用を生み出す。
相手によって変わるだけなので人間元々陽キャ陰キャということがあるのではないのです。真実は関係性の中で現れる天然の作用。
苦手な人もいれば関わりやすい人もいるでしょう。
好きな人、好きなアイドルであっても他人と異なるでしょう。
他人と好みもカブるかもしれませんが、それでもあなたと他人サマとの関わりは異なる。
月の映り方、観方、形が国によって異なるようなものです。
よって「一人ぼっち」こそ、最高の高校デビューであり、人生デビューなのです。
人間あなたの友達も含めて誰であっても、みんな一人=独りです。独自のキャラ。独自の存在です。
ただしその一人ぼっちは「独りぼっち」「独り仏智」に高めていく必要があります。天上天下唯我独尊。天にも地にも、世界に私というキャラ、存在はたった一人だけという強い自信にむけて向上させる。たまたま、自分と最高に合う人、合う状況、相性の合う状況に出会ってはいないけれども、あなたはあなたとピッタリ合う人や仕事、状況がこれからも沢山待ち受けています。
反対に苦手な人「怨憎会苦」というどうにも思い通りにならない人との関わりもあります。そういう追い詰められた心理があれば呪い神社で🦊コンコンしたくなるのも人間ならではの心理でしょう。
そのおブスちゃんも生まれは選べなかったのです。
あなたのその性格になったことも自分で選んでそういう性格になったわけではないでしょう。
人はそういう愚かさ、弱さを知って初めてより高い人格に向けて向上させようとする精神が芽生えます。
あなたにも保身がある。彼女たちにも守るべき保身の精神がある。
みんな守るべきものがあるのです。その弱さで相手も同じなのだとつながりあうべきです。
この世は弱さを守ってくれる人間が存在することで救われる人がいます。
どうか力になってあげてください。

2023年10月29日 16:55
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下さん、聖章さんありがとうございます。

今まで友人にしてきたことを反省して、罪滅ぼしではないですが、今後は意識して周りに善い行いをしていきたいと思います。

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