厭離穢土欣求浄土の意味
「厭離穢土欣求浄土」の意味について、今年の大河ドラマをはじめ昨今の小説やドラマでは「この世を浄土のような平和な世にする」というスローガンだと説明されていることが多いですが、浄土宗は唯心の浄土ではなく指方立相の浄土を説くはずで、凡夫に浄土は築けないと教えているはずですから、この解釈は浄土宗の教義に矛盾していないでしょうか。元来の意味が厭世的過ぎて現代人に受け入れにくいので無理矢理こじつけたように思えます。これはむしろ即身成仏を説く真言宗や娑婆即寂光土を説く日蓮宗の考えに近い解釈ではないでしょうか。
凡夫に浄土が作れるのなら弥陀も念仏も要らないことになってしまいます。
ただ、「浄土宗は死を待つだけの教えではないのか? 法然上人の時代のように道を歩けば死体がゴロゴロ、いつ自分もその仲間入りするかしれない世ならともかく、現代ではそんなに今生きているこの現世を否定しなくてもいいんじゃないか?」というこの胸に芽生えた疑問への答えとしては厭離穢土欣求浄土の現代風解釈は便利なので、指方立相の浄土とは矛盾すると知りながら都合よく取り入れてみるのも悪くないかなとも思っています(真剣勝負と八百長との狭間をウロウロするプロレスファンなので、こういう曖昧な考え方は得意なのです)。
できれば浄土宗のお坊様のみならず、他宗のお坊様のご意見も聞きたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
この世に浄土はできません
拝読させて頂きました。
あなたのおっしゃる通りです。
NHKの「どうする、家康」で度々放映されている「厭離穢土 欣求浄土」の解釈は全くまちがいです。
製作者・脚本家・歴史家が勝手な解釈を行い教えや歴史を捻じ曲げているのです。私達の生きる社会や世界では浄土にすることはできません。
私達は誰もが全て小さな愚かなものです。私達の煩悩である貪りや怒りや愚かさによりこの世は汚れているのです、このけがれた世を離れて阿弥陀様の浄土に心から生まれたいと願うのが法然上人、浄土宗の教えです。それは鎌倉~戦国~江戸~現代を通じて変わりません。
南無阿弥陀仏なむあみだぶつ、と心から念じて阿弥陀様に帰依しどうか西方極楽浄土へ生まれさせて下さいと願うのが法然上人、浄土宗の教えです。至心合掌 南無阿弥陀仏なむあみだぶつ
お返事ありがとうございます。
ただ死を待つのみではなく阿弥陀様の極楽浄土に往生することができるという教えや仏教の教えに出会うことがこの生の中でできます。浄土に必ず生まれ変わることができると信じて生きることができます。
そして現世で仏教の教えに巡り合いできる限り悪しきことをせず、善きことをすすめ、身も心も清めて生きる様に心がけて生きることができます。
今まで数限りない罪悪にまみれた愚かな私達でも阿弥陀様はお導き下さり、あまたの仏様や神様が勧めて下さり、先に往かれた親しい方々やご先祖様が私達を速やかにお迎えなさって下さいます。そして浄土で皆さんと再会し成仏することができます。
お釈迦様は覚りをお開きなさり、あまた仏教の教えを説かれました。その中でもっとも簡単で誰もが救われることのできる念仏の教えを説かれました。その教えに出会えたことはこの世に生まれ生きる意味があります。
善導大師、法然上人のみ教えのお念仏です。ただ一向に念仏すべしです。南無阿弥陀仏なむあみだぶつ
質問者からのお礼
ありがとうございます。やはりそうですよね。
ただ、そうなると「浄土宗は死を待つだけの教えではないのか? 現代ではそんなに今生きているこの現世を否定しなくてもいいんじゃないか?」
という疑問への答えはどうなりますか?
>現世で仏教の教えに巡り合いできる限り悪しきことをせず、善きことをすすめ、身も心も清めて生きる様に心がけて生きることができます。
ここでおっしゃっている「仏教の教え」とは何を指していますか? 念仏のことだとしたら話が循環していて僕の疑問への答えとしては弱いと感じます。
例えば「六波羅蜜だ」とか「般若だ」とかおっしゃっていただければ納得はできますが、それは「専修」念仏か?という別の疑問はわきます。
その念仏とは、一切仏教の中の一行としての念仏(鎮西義)でしょうか?それとも一切仏教を包括した総合仏教としての念仏(西山義)でしょうか?
後者であれば多少は僕の疑問への答えになっていますが、前者だと全然答えになっていないように思います。
申し訳ありません。一生懸命お答えくださったのはわかりますが、僕の疑問は氷解しなかったようです。