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科学と宗教の棲み分け。仏教は科学否定?

回答数回答 2
有り難し有り難し 15

 いつもお世話になっております。
 ある日、仲良くなった女子神主さんと話していて、
「科学じゃ説明できないこともたくさんあるのよ」
「お医者さんも信用しきっちゃだめよ」
と言われました。

 私はこの神主さんを怪しみ、あえて科学界隈の精神科の先生に、
神主さんからこう言われた、と伝え
「先生、科学で説明できないことって何だと思う?」
と尋ねてみました。
 「たくさんあるじゃない。精神の現象なんて最たる例だよ」
と言われました。
「個々人の物事に対する捉え方とか、病気を治したいっていう
気持ちを起こさせたりとかは、科学が干渉できないってこと?」
と聞いたら、その通り、科学はあくまで目に見えるものを探求する
学問だと言われました。同時に、
「みんな、科学に期待しすぎ」
と。
 精神科の先生のことは信頼しています。でも、科学のプロが
「科学に期待しすぎ」という考えなのはどうなの?とも思います。

 以前こちらで、宗教心、仏教心とは何か、と質問したら、
「当たり前のことを分かるようになり、惑いをなくすこと」
とお答えいただきました。目を開けたら見える、おならは臭い、
というようなことだとご説明いただきました。

 しかし、世の中の人は、
「どうしてこうなるの?どうすればいいの?怖い!」
とあらゆる事に惑います。
 科学は、
「これはこうだからこうなるんだよ(当たり前の提示)。こうすれば
怖くないよ」
と人々に教えてくれます。
 そして、素直にその事象を受け入れ、科学で明らかになった対応策を、
(例えば病気の治療)ありがたく実行させていただく。この謙虚さと
やる気を起こさせるのが、宗教心だと思うのです。

 こちらのお坊様も、
「仏教では、物事には必ず科学的原因があると説く」
「科学の発展なしに、現代社会はあり得ない」
とおっしゃいます。

 時折、「科学が人を貧しくした!」と言っている宗教家を
見かけます。私は、こういう人は危険だと思うのですが。

 ちなみに精神科の先生は、「僕を100%信用しないで」と言い、
神主さんも、医者を信じきるなと言いつつ「治らない人は、治そう
としない人よ」と言います。

 実は、長年の疑問です。私は、仏教は科学を否定する危険な宗教
だと思いたくないです。
 

2023年12月2日 6:57

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

優劣ではありません

拝読させて頂きました。
科学も宗教も求めるところは真実です。アプローチの仕方が違うのかと思います。どちらも人々を豊かにすることや助けていくことに目的があるのです。
どちらが優れているとか、どちらが価値があるというよりは私達人間が生きる中で必要なことを進めているのです。
一方的に優劣を競うことに意味はありません。現代人は様々なバランスの中で生きているのです。
真実や信じるに値することにしっかりと向き合って受け止めていくことや間違いや嘘偽りや悪業に惑わされることなく生きることがとても大事ではないでしょうか。

あなたが真実や真理にもとずいて毎日を安心なさり心豊かに生きていかれます様に切に仏様にお祈りさせて頂きます。至心合掌

いつも有難う御座います。お返事有難う御座います。これからも共に学ばせて頂きますね。科学も宗教もそれぞれに真理のもと導いてくれるのですね。至心合掌

2023年12月2日 19:36
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有り難し
おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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仏教と科学

ロータスさま

仏教は、宗教哲学、思想哲学だけであると思われがちですが、科学、物理学、量子力学などとも近接したことについては仏典でも扱われています。

例えば、華厳経の説く世界観と量子力学の世界観、または空と縁起の論理など。理論的には、基本的には因果論に基づいているからでもあります。量子物理学における情報保存の法則は、業の関係(カルマと輪廻)ともよく似た理論でもあります。ブラックホール情報パラドックスの問題を仏教からどう考えるのかはまた別の問題となりますが、、

死後のあり方も、どのようにして、また、どのような存在となって、中有、再生へと向かうのかも、非常に詳細に説明されています。

また、宜しければ、こちらの法話もご参考にされて下さい。

仏教と科学についての講演(ダライ・ラマ法王猊下)
https://www.youtube.com/watch?v=XbsjL4_rA9E&t=4s

合掌

2023年12月5日 10:47
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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

【Kosyo Kuuyo Azuma 先生】
 お返事いただき、ありがとうございます。
 アプローチの仕方が違う…精神科の先生も、うつ病を例にして、
言っていました。
「薬を使ってモノアミンの量を調整して、症状を軽快させる。これが
科学的アプローチなんだけど、あくまで、科学ではここまで。患者さん
一人ひとりと向き合うとなると、科学の守備範囲からは外れたものに
なる」

 また、私が、
「ここに半分ジュースが入ったグラスがあるとして、それに対し
『もうこれしかない』と捉えるか『まだこんなにある』と捉えるか、
なぜそう捉えるのか、また、考え方を変えさせるというのも、
科学が干渉できない範囲?」
「病気を治したい、先生たちが教えてくれた治療法を試したいと
患者の気持ちを起こさせるのも科学ではできない事?」
と聞くと、「その通り」と言われました。

 科学は、物理的に捉えることができる範囲、つまり目で見える
ものに対して干渉、繁栄させるもの。
 宗教は、目に見えない人の心の動き…たとえば、物事に対する
捉え方とか、特定の何かに対する意欲(薬によって意欲を引き出す
こともできるけど、「特定の何に対して」は無理)をよいものにする。
 と解釈しました。

 私が尊敬しているある生化学の先生も、
「うつ病は、患者本人が困ったり、治したいという気合がないと
治療がとても難しい」
「精神障害は、薬に溺れず、患者本人も直したいと思うことが大事」
とおっしゃっていました。

 神主さんも、
「治らない人は、治そうとしない人よ」
と言っていました。
 すべてがつながった気がします。これからは、謙虚に科学文明や
医療技術に感謝し、謙虚に仏様と先生方の教えを学ばせていただき
たいと思います。

 「科学も宗教も求めるところは真実」
「間違いや嘘偽りや悪業に惑わされないように」
で思い出しました。
 世の中には、サプリメントビジネス、EM菌、空間除菌
などの「偽科学」がはびこっています。
 サプリメントに関しては、マルチビタミンなどはいいほうですが、
医療効果を標ぼう(膝痛が治るなど)したり、痩せるよ!とうそぶい
たり、挙句、健康被害を及ぼすものもあります。
 日本人の科学リテラシーが低いのに便乗した悪徳商売です。
Azuma先生も、気を付けてください!
 ちなみに私は、顧問だった税理士がサプリビジネスに手を出し、
人柄も変わってしまったので、縁を切りました。縁を切る勇気を
くれたのは仏様の働きかけ、そして、尊敬する生化学の先生の
お知恵です。
 こちらの先生は、YouTubeとご著書で、みんなが偽科学に
騙されないようにと情報発信や、「罰ゲーム研究所」という
エンターテイメントも出されています。
 大変なご苦労をされている方でもいらっしゃるので、仏様に
お祈りするときには、こちらの先生のこともお祈りしています。
(これは余談)

【Eishun Kawaguchi 先生】
 お返事いただき、ありがとう
ございます。スマホからなので
読みづらいと思います。申し訳
ありません。
 なるほど。例えば、化学で扱う
「物質の三態」…固体、液体、
気体への物質の変化は、まさに
空性を表しているかのようです。
 水は室温25度では液体ですが、
沸点100度になると水蒸気…気体に
なり、0度になると氷結…氷に
なり始めます。
 因縁果の教えも、「物事が成立
する条件(縁)が揃って、初めて
結果が生まれる」と説きますね。
 科学は、その「物事が成立する
条件」を追求します。

 上げればキリがないのでここ
までにしておきます。

 そして何より共通するのは、
「偽った法を説いてはいけない」
ということ。
 人を惑わす新興宗教やニセ科学
ニセ医学は、不動尊の智慧で
一刀両断せにゃならんという
ことですね。

 マイナスイオン、EM菌、空間
除菌、サプリビジネス滅ぶべし!🔥

「宗教について」問答一覧

カルトと安全な宗教の違いとは?

 いつもお世話になっております。私が尊敬する科学の 先生に、「ヘルドクターくられ」先生とおっしゃる方が いらっしゃいます。  先生は、アンダーグラウンドの分野にもお詳しく、 「これこれこういうものは危ない。気をつけなさい」 と注意喚起をしてくださっています。  その項目に、「カルト教団」があります。先日私は、 先生の記事から気になって、カルト教団について調べ ました。  私の認識では、「カルト教団」と「安全な宗教(=純正宗教)」 の違いは、このようであると認識しています。 【カルト】 1.医学・科学を否定する  →通院している・通院を検討している病者や障害者を、   「医師は悪魔だ」「薬物中毒にされる」「分類屋の   言う事に耳を貸すな」などと言って、病院から   遠ざける 2.「死は救済」と説く   →信者を自殺させたり、殺人事件を起こしたりする 3.「金銭を寄進をしないことで、神仏から罰が下る」と   脅す 4.排他的・反社会的思想で、信者の怠惰と慢心と孤立を扇動する  →「私たちはこんなに簡単に世界の裏の真実にアクセスできて、    できない奴らと違い賢い!」と思い込ませて搾取 【純正宗教】 1.医学や科学も積極的に頼らせる  →つらい症状が出ている、精神的に不安定な信徒には、   「病院で診てもらいなさい」「病院へ行くことは恥ずかしく   ない」と励ましたり促したりする(確か、仏様の32の特徴   にも、「病人に薬や食事を与えて看病した結果得られた特徴」   というものがあった気が…) 2.「生きる」ためのアドバイスをする   →「死後の事は仏さまにお任せすればいい」「仏さま・ご先祖様     から頂いた命を粗末にしてはいけない」「生きる上で、     仏さまが残してくださった教えを読み解いてヒントに     にしよう」と促す 3.無理に寄進をさせない  →例えば「生前戒名を貰いたい」と言った信徒に、「戒名、   経済的に苦しければ無理につけなくてもお浄土行けますよ」   と説く。お布施も、「自分のために使いなさい」と返したり   する 4.様々な人や生き物、価値観との共存共栄を目指し、「努力」の  大切さを説く  以上の認識で問題ありませんか?自分や、最近仏事に 興味が出てきた友人がカルトに騙されないよう教えるためにも、 再確認したいのです。

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宗教と酒

宗教を辞めるか、飲酒を辞めるかで迷っています。 私は、ある宗教の2世に生まれた男です。私は、中学、高校の頃は、ずっと宗教から離れていたのですが、20歳になってから、母が教会に通うように勧めるようになり、そこから再び、宗教と接点を持つようになりました。最初は、母は自分のためを思って教会に通うように勧めてくれている、宗教の教えは素晴らしいと思い、自分から積極的に教会に通いました。 しかし、社会人になる直前の頃に参加した勉強会で、班長から私の他の班員との接し方や考え方を全否定されたことを機に、教会の教えと信者の行動に矛盾を感じるようになりました。また、飲酒は禁止という教えも、「酒が問題なのではなく、飲む人の自制心の問題なのでは?」と思うようになり、父からの許可もあり、飲酒を解禁しました。 しかし、その後も母から同じ宗教の人と結婚するように言われ、何人かの人とお見合いをしてきましたが、みんな私と同様に信仰心が薄い様子で、何人お見合いしても結婚に至らず、中には、前述した勉強会の班長と同じように私の趣味や価値観を全否定して断ってきた人もいました。 そして、今年に入ってから離教の意思を固めつつあったのですが、先日、自分の所属する教会の責任者の方から温い言葉を頂き(その人は、下心ではなく、本気で私のためを思って言ってくれている)、一旦は離教の意思は薄れつつありましたが、その宗教で結婚するためには、「飲酒、喫煙をしない」ことを誓約しなければならず、私は、前述の考えや、先祖が酒屋で、先祖が酒を売って生計を立ててきたから今の自分が存在しており、飲酒を否定すると、自分の存在そのものを否定することになるのではないかと思い、それならばやはり離教した方が良いのではないかと再び思うようになってきました。 一方で、多くの信者の方々と関わり、嫌な人の印象が強いとはいえ、本気で嫌悪感を抱いたのはたったの6人のみで、それ以外は良い人ばかりで、酒だけのためにその人たちと縁を切ってしまって良いのかという気持ちもあります。また、すでに30代になり、収入も低いため、離教すれば結婚できる可能性が更に低くなるという懸念もあります(離教に対して寛容な父でさえ、「どのような形でも結婚はしておいた方が良い」と言っている)。 この場合、やはり自分の個人的な欲を抑えて 宗教に留まった方が良いのでしょうか?

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受動意識仮説 自由意志論を知って

前野教授の意識は受動的で無意識がやったことを自分がやったと錯覚しているだけという受動意識仮説、そしてそれに伴う自由意志はないという考え方を先日知りました。わたし自身、魂の存在を信じているわけではありませんし、科学的に神経ニューロン、体内細胞で私達が作られているということはよく理解できます。ですが、実際に私が意思決定していないと言われると、わたしはどこにいるのか、何がわたしなのか、これまでのわたしが歩んできた道はわたしが選択していないのか、と不安と恐怖で胸がいっぱいで辛いです。脳もわたしなのだから、わたしの意思決定だろうと考えますが、それはわたしではないのでしょうか。私とはなんなのでしょうか。私を大切にするとはどういうことなのでしょうか。 脳に操られているという文章もみて、理解はできますが辛くなりました。また、自由意志論についても、ネットの情報を色々みて、悲観的に考えてしまい辛いです。自由意志はないのだから、気楽に生きていこうという考えも見かけますが、わたしは自分で自分の道を切り開いていきたいと考えてきます。それは難しいのでしょうか。不可能なのでしょうか。 拙い文章で、難しい内容を話してしまい申し訳ありませんが、受動意識仮説、自由意志論を知った上で、どのようにそな考えを捉え、生きていけばいいのか、アドバイスをいただけると嬉しいです。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 9
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親に話した

母親から「神様、仏様は乗り越えられる試練しか与えない」と言われ、私は「そもそも試練を与えないでほしい」「仏様信じてます」と答えました。   ⑴この場合私はわがままだと仏様に思われるのでしょうか?   会話の続きで、最近は南無阿弥陀仏を1日一回、なるべく西の方を向いて唱えてることも初めて言いました。   その際に、なんでするの?と思ってるだろうなと伝わってきたので「仏様は私を救ってくださる」と言い、その後「仏様はみんなを救ってくださると書いてあったよ」と訂正しました。   (2)いきなり言っちゃったな、普段宗教の話をしないから母からみればやばいだろうな、自分の言葉選びがなんだか変だな、上手く言えてないななどと自分自身にクスッとしてしまったのですが、仏様は怒りますか?仏教に対して笑ったと思われてしまいますか? ⑶ただの一般人である私が先ほど親に言ったことは、仏教を語っていることになるでしょうか?また、一般人が仏教を語ることはよくないことという認識であっていますか? もし仏様を怒らせてしまっていたらどうしよう、、と心が落ち着きません。   質問ばかりで申し訳ございませんが、よろしくお願いいたします。  

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伝統と原理主義の境。不幸=神仏の怒り?

 いつもお世話になっております。  私が尊敬する情報科学の先生がXで、 「未だに、天災や気象現象を『神仏の怒り』と考える人は多く いる。しかも議員になれてしまうほど支持率が高い。なんでも かんでも『神仏のせい』にすれば、自力で考えなくて済むから。 だから自分は、宗教の原理主義的なものは嫌いだ」 とおっしゃっていました。  私は、宗教は「生活規範」「安心と励ましを与えてくれるもの」 と捉えています。  昔の人は、不幸な事…災害の発生や疫病の流行が起きると、 「仏様神様がお怒りになっている」 と捉えたと聞きます。  しかし、私は、 「地震だ!身を守れ!備蓄はあるか?火は出ていないか?神仏が見守って くれている。頑張って知恵絞って、みんなで力を合わせて乗り越えよう」 と捉えています。  私は、原理主義…つまりそのまま文字通りに経典等を捉えることは、 思考停止、理解が浅いと思っています。理解の浅さや霊感商法にも 繋がると思っています。  私は、宗教とは、経典を生活規範としつつ、いかに世渡りをして いくかを説いてくれているものだという認識です。  「宗教やってる奴なんて狂人」とネットで言っている人がいました。 私は、昨今のゆがんだ宗教観が原因でそういった認識も広まったと 思っています。霊のせい、神仏のせい、墓があるせい、方角が… お告げが…  お告げに至っては、現代ではメスカリン、アヤワスカの作用や 精神疾患が原因と分かっています。  また、ある工学の先生は、 「自分の感覚では、宗教は『頼る人』と『信じる人』に分かれると 思う。頼る人は、自己分析不足で盲信的、信じる人は客観的な 自己分析ができ、自分の非力さを理解したうえで、足りないところを 宗教の裏付けで上手くバランスをとっている印象がある」 とおっしゃっていました。  私は原理主義者、「頼る人」ではなく、伝統墨守、「信じる人」と いう立場でいたいです。原理主義者にならず、伝統を守りつつ、 世渡りをしていくにはどうしたらよいでしょうか。

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牧師、神父、イエスキリストが信じられない

仏教のサイトでキリストの話をするのは筋違いだと思いますが、お話しします。 イエスキリストを心の底から信じられないのです。 というか、私は私が所属したい教会がわかりません。 宗教ジプシーで、十数個の宗教を渡り歩いてきました。 でも、どこの神様も心から信じられないのです。というか、どこの教会も心から信じられません。 牧師にもそのことを話しました。 どこの教会が真理かと。 で、聖書を読んでいるかと牧師に問われて、新興宗教の教会に通っていることを打ち明けると、とても馬鹿にされました。 すごく悲しかったし、本気でキレてしまいました。 新興宗教というか、キリスト教の教会にも行かなく成りました。 なんだか、「クリスチャン」が信じられないのです。 もちろん私が知り合ってきた人には、良いクリスチャンもいます。でも、ネットでクリスチャンを自称している人は嫌いです。 ガンジーが「クリスチャンはキリストのように生活してねーじゃん」とツッコミを入れているように、私はクリスチャンが善人ばかりではないことを悟りました。 私はどうしたらいいんでしょう。 もう宗教が嫌になっています。 嫌というか、何かすごい心がモヤモヤします。 どうしたらあの嫌な牧師を赦せるのでしょう。汝の敵を許せと聖書にはあります。 でもどれだけ祈っても聖書を読んでも牧師を赦せないのです。 カウンセラーにも牧師を赦せないことを話しました。 でも、心理学や精神医学を使ってもあの牧師を赦すことができないと私は思ってしまいます。 カウンセラーに助けを求めましたが、正直あまり救われたと思えないのです。 どうすれば人を赦せますか。 お坊さんは、こいつ殺してやりたいと思う奴をどう赦すのですか?そもそも人を殺したいほど憎みますか? また、どうすれば、私は私が納得する教会というか、教えに出会えるでしょうか。

有り難し有り難し 12
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ