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親友の死をきっかけに母とどう接していいか分かりません

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50代の母のことです。父は仕事で単身赴任中で、現在弟2人と母とで暮らしています。
先日、母の20年来の親友が急死しました。その親友Aさんとは職場の同期であり、母のたった一人の友達でした。母は、社交的ではなく、人と深く関わることが苦手であり、そのAさんだけには、子育ての相談をしたり、家族の相談など、母は心を開いてAさんには打ち明けていました。

そんなAさんが、突然急死しました。母は相当ショックを受けていました。私は、他県に住んでいる為、毎日電話で声を聞いていました。日に日に母の精神状態が不安定になり、よく電話口で泣くようになりました。
「今まで、悩みを相談していたのにもう聞いてくれる人はいない。Aさんだけ先に死んで、怒りが出てくる。」「このまま、ずっと(弟2人)ご飯や洗濯などするのが疲れた。食事も美味しくない。」父には、「私が困っているときは、いつも居ない。」など憤慨しています。

母はやる気がなくなり、毎日ゴロゴロしていることが、多くなりました。声にもハリがなく虚ろな感じさえします。私は、できるだけ母の話を聞こうと毎日電話はしていますが、最近弱っている母とどのように接したら良いか分からなくなりました。親友の死はとても悲しく、母の気持ちもよくわかります。しかし、親友の死をきっかけに、人生のすべてを否定し、生きる気力まで無くしている母をみて、最近は怒りさえ感じます。父や弟2人は、母は泣いたり、怒ったりするため、どう接して良いかわからず、ほとんど話をしないようにしているようです。

時間が解決してくれるだろう…と思っていますが、私はどのように母に接したら良いのでしょうか?母には元気になってもらいたいです。親友の死をきっかけに、生きる気力までををなくしている母は、どうしたら良いのでしょう。亡くした人などが集まって話あう集いのような所には、母はきっと参加しません。父や弟は、母の話を聞ける感じではありません。私は娘として何かできることはあるのでしょうか?精神状態は不安定な母と話をすると、なんでそこまで自分を否定し、周りも不幸になっているのに、いつか母に怒りをぶつけてしまうのではないか…と恐いです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

死を終焉にするべからず

人が誰かの死に接して無気力になるのは、死を終局、終焉、終止のままにさせているからです。
死は終わりではありません。
その人の中で、誰かの死をもって終わりと定めている、思い込んでおられるから心が停滞してしまうのです。
死を終わりとみなしてしまうのか。
死を流れの中の一時として見るのか。その違いによっても心は大きく変化します。
私でしたら、お花を買ってきて食事に手も誘い、お墓参りに無理やりにでも連れていきます。
お母さんの中には、話したくても話せる相手がいないので余計に苦しいのであると思います。
その方がお母さんにとってどのような存在であったのか、分かりきったことであっても、お母さんが納得し、自分の言葉で話尽くして、出尽くすまで、お母さん自身の言葉であなたに打ち明けられる環境を作る事です。
確かにお母さんのお友達は亡くなられました。でもお母さんは生きている。
お母さんと親友さんとの生死の隔てを超えた関係は続いていきます。
やがて、お母さんの中で、ああ、人は死んでも終わりではないのだ、ということが自覚されればあなたのお母さんに対する憂いは亡くなるでしょう。
感情的になってしまいたくなる気持ちをぐっとこらえて、あなたの大親友が亡くなってしまったことを想定して、お母さんの気持ちにできる限りより添って、お母さんの口からその事に関することを言葉にしてもらうことで、少しずつ川は流れて行きましょう。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

孫の顔を見せてみるのはいかがでしょうか

双子ママさん、こんにちは。
他県に住んでいるためすぐに駆けつけることも出来ず、もどかしさもあるかと思います。
人は子どもの笑顔を見ると、気持ちが晴れるものです。
子育てで忙しい日々を送られているとは思いますが、一度時間を作られて、ゆっくりとお母様に孫の顔を見せてあげてはいかがでしょうか。

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おきもち

『般若心経』を梵語(サンスクリット語)で読める日本でも珍しいお坊さんです。 【人生の目的】 世の中の人々によりよい生き方を伝えることである。 【志事】 暗中模索してもがいているあなたに、一筋の蜘蛛の糸のような光を照らすこと。 ☆ブログ【仏の道】 「あなたがよりよく生きるために」必要な情報を毎日発信しています。

質問者からのお礼

お言葉ありがとうございます。子供を連れて実家にしばらく帰りました。孫をみると自然に笑顔も増え、私もそんな母の顔をみると安心しました。まだまだ、心は癒やされていないようですが、母を誘ってお墓参りや、親友と旅行した土地を訪れたりと時間を取りたいと思います。ありがとうございました。

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