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阿弥陀如来の存在を確信できません

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有り難し有り難し 5

浄土真宗の方におうかがいいたします。
私は浄土真宗某派の門徒で、すでに法名もいただいております。
代々の門徒の家に生まれ、お経と言えば正信偈でした。
しかしながら、阿弥陀如来の存在を確信することができません。
人間を超えた大いなる存在があり、それによって生かされているということはしばしば実感し、そうしたときは感謝の念が自ずとわいてきます。
しかし、それが阿弥陀如来だ、と言い切れるかというとそうは言えないのです。
必ずしも阿弥陀如来でなくてもいいのではないか、という気がします。
大いなる存在は感じることができても、「法蔵菩薩であられたとき・・・」「四十八願を立てられ・・・」「西方浄土におはします・・・」と物語が始まった途端に、あまりの非現実さに白けてしまうのです。
現在の文献学の認識では、浄土三部経はゴータマ・シッダッタ様が直接に語ったものではないというのが、定説だと思います。
キリスト教がキリスト教たり得るのは、預言者イエス・キリストに近侍し、その言動と奇瑞に直接に心を揺るがされた弟子たちの福音書があるからだ、と考えます。
阿弥陀如来は、誰が、どのようにして見出されたのでしょうか。
別の言い方をすれば、浄土三部経は、誰が、どのように阿弥陀如来の存在を感得して、編まれたのでしょうか。
誠に不躾な質問で恐縮ですが、私にとっては根源的な問題なのです。

2023年12月26日 21:46

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

現代の学問的知見から見れば

浄土三部経とその内容が、釈尊が確認して語った歴史的事実の記録ではなく「仏説」と騙って誰かが作った創作物語であることが、歴史上の事実として認められています。
 当のインドではこういう創作品が受け入れられず、いわゆる大乗経典がどれも流行らず、仏教をそれまで知らなかった中国に初期仏教の経や律と一緒に持っていくと、これも仏説として受け入れられた、というのが歴史上の実態のようです。
 同時に様々な「仏教」説に触れた中国や日本のお坊さんは、自分でいろいろ解釈して整合性を取ろうとしました。「宗派」はそういう祖師たちの努力の結果です。
 例えば親鸞は最晩年の「自然法爾章」などに、阿弥陀如来と言っているが、これは真理そのもの(法身)が仮にそういう形でここでは表れている(報身、さらには方便法身)と解釈しました(その後の浄土真宗ではあまり受け入れられていません)。
 親鸞も同時代の誰も浄土三部経が創作品だと知らなかったと思いますが、内容を何とか理性的に整合しようとするとそういう理解になると思います。
 大いなる存在と会う、合一する、という考えは、世界中の宗教に共通の考えで、インドでは禅定に入って梵天界に行く梵我一如が有名です。仏教に入って仏性・如来蔵思想と呼ばれます。
 これはまだ悟りではないのですが、釈尊も施論・戒論・生天論として、幸福な輪廻として、悟らない場合の次善の生き方として勧めています。浄土真宗のように悪人こそ、ではなく、布施や持戒などを頑張ってから、ということですが。

2023年12月27日 8:13
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有り難し
おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...
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質問者からのお礼

藤本様、大変ありがとうございます。藤本様の著書は何冊か拝読しており、最近では「部派分裂の真実」を読ませていただきました。私が阿弥陀如来を信奉する浄土真宗に確信を持てないのは、阿弥陀如来の淵源もさることながら、あまりに他力を強調するがため、今生でのおのれの存在の意味が分からなくなってしまうことです。「いただいた信心」は考え方としてはもっともですが、鎌倉時代の難民に近い人々ならともかく、現代の人間にとってはむしろ易行どころか最大の難行です。おっしゃるように今生で布施、持戒の努力はするが、それはそれとして(それをしなくてもその意識さえあれば)浄土でその努力の続きをさせてくださるというのならまだ論理的に理解できるのですが。ともあれ、ご回答に心から感謝申し上げます。

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住職の妻は寺の嫁?

初めてご相談させていただきます。 禅寺の住職と結婚し、数年の内に寺族安名式と寺族研修を修めております。 ですが私の性格上(向き不向き)、どうしても寺の嫁として期待される作務で日々を過ごす・働くのは窮屈に感じてしまいます。 一般企業で就職し、会社の駒でいるほうがずっと働きがいを感じられます。 ですが、結婚を機に引っ越したお寺は田舎で周りに会社が少なく、また菩提寺として檀家さんからのお布施でつつましくも兼業が必要のない所です。 なので周囲も義家族も夫も私に対して「あなたは当然お庫裏さんでしょう」の感覚を当たり前のように押し付けてきます。 もちろん結婚前に夫の言う「大丈夫、難しいことなんてないよ。できるよ」を深慮せずに、大好きな人との結婚に舞いあがってた私に責任が無いとは言いません。 ですが在家のイメージと寺育ちのイメージの乖離にお互いが気付くには、結婚前だと中々難しいものがあると思います。 檀家さんとお寺を護っていこうとする夫や義両親の姿勢は尊敬していますが、結婚して一緒に過ごせば過ごすほど私にはできない、したくない、寺族としては関わりたくないという気持ちが、強く固まってきています。 もちろん人付き合いはしますが寺の嫁と見られますし、狭い田舎なのでとにかく身元が筒抜けなのも気持ち悪いです。日常の買い物ですら監視されている気分ですし、大げさに言えば清く正しく慎ましくあって当然、すばらしい義母に導かれ良き寺嫁になってくださいね。と重圧すら感じます。 婚姻届に寺族の誓約書でも付いていたっけ?と思うほどに信教と職業選択の自由を奪われています。 夫が住職なんだから当たり前でしょ、と言われますが、例えば自衛官の妻に国防の意識を強制しますか…? 仏教だから疑問に思われにくいだけで、義家族と夫の行う宗教マインドに染まりましょう、というのは私からすれば新興宗教の勧誘と変わりないのではと思うようになりました。 頼まれた時に手が空いていれば留守番や片付けくらいはします。ただ毎朝本堂へ手を合わせに来いだとか、夕方の鐘をつく役割をしてほしいとか、寺族の勤めを促してくるのはやめてほしいです。 長くなりましたが私だけは、在家・OLのように過ごしたいと思っていることを どのように伝えればいいでしょうか。相手の人生を否定する気はないのですが、私の❲生きやすさ❳は否定されそうで悩んでいます。

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故人の魂はどこに?

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