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後悔の気持ちが消えません

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有り難し有り難し 18

今年38歳で10歳の息子が一人います、結婚後すぐに息子を授かりました。

妊娠中の夫婦、義理両親との不仲、少しの入院、主人が育児に非協力であると感じたこと等、今思えば大した理由ではないのに私がもう1人子供を望まなかったことです。
主人はもう1人望んでましたが譲歩して諦めてくれてました。
今は夫婦、義理両親とも順調と思います。
身体的、経済的理由なく息子に兄弟を考えられなかった事、自分のエゴですが念願の娘をもてたかも、と思う気持ちがあります。

ずっと息子1人で幸せでしたが、一昨年急にもう1人欲しいと思ったのですが、出産ブランク、自分の年齢リスクを思うと怖くて踏み込めませんでした、去年に悩みすぎて私が精神バランスをくずしました。主人からも今から妊娠はやめて欲しいと強くお願いされてます。
私には今から妊娠、出産、育児は無理と思っているようです。私も自分で自信がありませんので諦めました。

今でも十分幸せで贅沢な悩みとわかってますし、もう1人望んでいても今より良かった保障がないのも分かってますが、あの時主人の言うとおりもう1人望んでいたら。。と吹っ切れません。
仕事や趣味もしてますが他人を羨む気持ちもでてきて毎日後悔が消えません、どうしたら毎日今で良い!と思って過ごせるようになれますか。
お教え下さい。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

それは後悔ではありません 

厳密にはそれは後悔ではありません。
欲、求め、欲している姿なのです。
結論は、自分の欲望の図式を理解すれば解決です。
欲望というものが「どういうものであるか」「何をしているのか」を理解すればいいのです。
欲望とは、今目の前に出されている素晴らしい料理(←たとえ♡)に対して、そっちを肉眼で、耳で、鼻で、舌で、体で味わうことができるのにもかかわらず!
❝別の他のヨソの外の異なる より良いもの❞❝なんか別なもの❞❝サムシングエルス❞を欲している姿です。 つまり現実を度外視して他の別のサムシング得るッス状態です。(←シャレ)
つまり、あなたが実物を目の当たりにしていながら、厳密には目の当たりにしていないということです。現実を度外視している!という事を理解してください。
肉眼は、現実の料理(状況のこと)が観えているのだけれど、
心の中で別のモノを要求している、ことに気づいてください。
この目の前の素晴らしい世界を享受せず、当たり頂かず、手にせず、気づかずに過ごしているということです。
欲望とは分かっているようで、実は多くの人が知らない・わかっていないのです。
欲を起こしている時、それが厳密に何をしているのかを心底理解していないのです。
だから欲望の図式、欲望の性質、欲望の表れ、欲望時の内容をあなたが理解することで、あなたはヨソを求めなくなって問題解決です。
結論は「ああ、私は他ばかり描き求めている生活態度であったか」「ああ、今与えられているこの素晴らしい我が子を愛していくべきであったか」「私の理想とする幸せ図式が必ずしも夫や、子供が喜ぶとは限らないのだから多くを求めることは慎もう」となっていくことです。
求めに気づき、それを発生させないことで、いま・そこ・ここの真実現実に帰ってくる・目が開くことでしょう。(^<^)

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おきもち

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

後悔への対処法

まめさん様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「後悔」につきましては、これまでにも下記の各問いにて扱わせて頂いております。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_318945.html

「・・過ぎてしまった過去は決して取り戻せません、しかし、そこにとらわれ続けていては全くこれまでと変わることもありません。問題は今、これから何をなしていくべきかであるかと存じます。・・」

「後悔」というものは、「後で悔やむ」というように、既に過ぎ去った過去のことにいつまでも囚われを起こして苦しんでしまうことでございます。

過去へと戻れない限り、過ぎ去ったどうにもできないことは、もはやどうにもできません。但し、またご縁が調えられるようであれば、可能性は無いわけではありません。無責任には勧められませんが、もしも、もうお一人望まれまして、ご主人様の理解も得られることができ、高齢出産におけるリスク、健康にも十分に留意しつつ、周りのサポート・励ましにて心の安定も図りながらで、もしか致しますと可能性は少しくはあるのではないかとは存じております。

とにかく、この世は「縁」によりて「起」こっている、「縁起」なる世界、何事も因・縁(原因や条件)次第となります。確かなる因・縁を調えていくことで、しかるべく結果も望めるというものとなります。もちろん、因・縁を調えられないのであれば、それはそれでしっかりと受け入れていくしかありません。

「他人を羨む気持ち」・・と少し書いておられますが、色々な縁がなかなかうまく調わずにて、子どもを授かれない方から見れば、逆にとてもまめさん様のことを羨まれるのではないでしょうか・・とにかく、「今」できること、すべきことに精一杯に頑張って取り組んでいくこと、善き結果を望むのであれば、善き因・縁を調えることに努力していくことが、後悔を残さないための対処法となるのではないかと存じております。

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

ありがとございました。
後悔ではなく欲だとは気づかなかったです。
欲望の内容。。
難しいとは思いますが、理解していきます。
この先目の前にある幸せに気づかず、楽しく過ごせず別の後悔をしたくなかったのです。

ありがとうございます。
家族全員、同居してる義理両親、特に主人はもうやめて欲しいとのことで、私もそれを振り切って出産、育児を一人でして今よりうまくいくのか不安です。
贅沢な悩みだと思います。
今いる我が子とだけ縁があったんだと思います。

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