死んだ方がいいという気持ちが消えない
数年前、自宅介護していた祖母を看取りました。
デイサービスを活用しつつ、家族で頑張っておばあちゃんが無理せず過ごしやすいように介護していたつもりでした。
ですが亡くなった後、介護職の親族に、
「やっていることが介護ではなくネグレクトだった」
「おばあちゃんを殺した」
「良い施設に入れてあげたかった」
と言われました。
祖母を亡くした悲しさに勢い余っての発言の面もあり「そんなことはない」と思ってはいます。
ですが、一方で「介護のやり方が間違っていたのでは」「私達が祖母を殺してしまったのでは」「他の親族もずっとネグレクトをしていた思っていたのでは」という気持ちが心から立ち消えません。
この騒動の他、さまざまな心労が重なり仕事を辞め、現在は不安障害の診断をもらってメンタルクリニックに通っています。
服薬と休息のおかげで落ち着いている時間も多くなりましたが、やっぱり『祖母を殺してしまった』という不安はなくなりません。
行動を起こすまでには至ってませんが、殺してしまったという言葉が尾を引いて「死にたい」「自分なんて死んだ方が良いのでは」という気持ちがずっとあります。
距離的には、隣で肩を並べているくらい近くに居ます。
この話を誰かに話すと、大抵の人は私たち家族は悪くないと言ってくれます。
でも、私に気を遣ってそう言ってくれているだけで、本職の人が見ればネグレクトだったのではと、優しさを受け取れないでいます。
ここ数年ずっと穿っている生傷のような話です。
何かお言葉をいただけると幸いです。
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こんにちは、大将さん。
はじめまして、はくりょうと申します。
おことば、拝見しました。
おばあ様のお世話、大変でしたね。本当に良く頑張りました。自宅で介護を続け最期を看取るのは、なかなか出来る事では有りません。これはされた人にしかわからない事です。周りからの雑音が色々と耳に入って来るでしょうが、これも仕方の無い事です。その人たちの、やってなかった・できなかった・やりたくなかったその気持ちが、否定的な言葉となって出やすいのです。だから大将さんはいっさい気にしないで下さい。ただの雑音なのです。
「介護のやり方が間違っていたのでは」「私達が祖母を殺してしまったのでは」とお考えのようですが、これはおばあ様のお世話を頑張ってこられた証しであり、自然に湧き上がる感情です。大将さんが心優しき人である証拠です。
頑張って辛抱して頑張り過ぎて、大将さんの心と身体が疲れて悲鳴を上げておられるようです。きちんと薬をのみゆっくり休めてください。
横になって目を閉じ両方の手のひらを合わせれば、今度はおばあ様が大将さんを見守ってくれます。
急がず焦らず、ゆっくりと心と身体を療養してください。
大将さんの心が晴れますように。
はくりょう拝