スピリチュアル?自己啓発?のサイトを見て
よく、自己啓発?スピリチュアル?界隈が自分の人生は全責任を自分で持ちなさいと言われています。僕はこの事に対して疑問とこれが浸透しすぎるとまずいのではないかと恐怖を感じています。
確かに自分の人生の責任を100%自分の責任とすることは他人に流されない生き方をしようと聞こえはいいのですが、この言葉は裏を返せば自己責任論だと思います。
僕には、この言葉は傷ついてる人やどうしょうもない状況に置かれている人にはお前が悪いのは全てお前のせいなのだから自分一人で解決しろ、人様を頼るな誰も助けないのはお前が悪いからだという様な言葉になってしまうのではないかと感じます。
この言葉、そんなに神格化するほど正しいんですかね?
のっぴきならない状況の時に何かのせいだと思い声をあげ主張することは間違っているのでしょうか?
疑問に思ったので相談させていただきました。
皆さまの幸福をお祈りします。 自閉症ぎみでうまく文章がかけないかもしれません。 変な事言ってたらごめんなさいm(_ _;)m
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ほぼ同感です。
こんばんは。私も昨今の自己責任論には肯首しかねます。
というのは、「全てに責任を持つ」ことは不可能だからです。物事が起こるのは縁起により、即ち「原因と環境の力が働く」からです。その割合は様々でしょうが、いずれにせよ「自分だけの力ではない。かと言って自分は無力でもない」というものです。
ですから、気をつけてほしいことが二面あります。①何か思い通りでないこと、苦に出会った時には、「自分が全部悪いんだ」と思わなくてもよい。そう思うのは悲観論者、うつ気味です。 ②全てを他者のせいにすることもできない。自分の苦について、自分は無力ではないのです。これは楽観論者です。苦をどう理解し、扱うかは仏教の大事な所です。
気をつけなければならないのは、「白か黒か」という発想です。「自分は悪くないのに、全てアレが原因で俺は苦しんでる」というのは、やはり自分を無力と評価してする点で良くないです。
なので、言葉を借りれば「自分の人生には、なるべく自分で責任を取りなさい」ということになります。黙っていれば人間は楽をしたがるものですから、それを避けるために「全責任を」と強調して言っているだけなので、そのまま真にうけなくて良いと思います。
大概の言葉は、「どんな人に対して」という対象を限定したものです。「こりゃ自分に対して、ではないな」と捨ててもよいのです。どんな病気にも効く万能薬はない、というのと同じです。
聞く言葉は自分でしか選べない
自分の人生に責任を持つ。
確かに厳しい考え方ですが、『自業自得』を考え方の基礎に持つ私たち仏教もまたこれに近い思想に至ると思います。
そのことを前提に聞いていただきたいのですが、もちろんこの言葉が毒になることもあるでしょう。
病人には病人食があるように、赤ん坊に離乳食があるように、言葉もまた心が弱っている人に向けて優しいものがあっても良い。
それはそのとおりでしょう。
しかし、一方で『自分の人生に責任を持ちましょう』と言われることが必要な人もいるのです。
『私は優しい言葉を言ってます』という看板を出してる人が厳しいことばかり言うような“看板の掛け違い”があれば、そこに文句を言うのは正当でしょうが、
「その言葉は自己責任論だからダメです」
とはなりませんよね?
啓発というのは、食事で言えば高タンパクなアスリート用の食事です。
一般的な人には味が薄く、ストイックで食べにくいことでしょう。
だからと言って、
「牛丼は病人が食べられないから牛丼屋にお粥を置くべきである!」と言うような主張はなかなか認められるものではありません。
というか、自己責任論を他者の話として聞けないくらいに心が弱っているなら、人の言葉に耳を傾けている場合ですらないかもしれません。
ともかく、
『あなたに向けられた言葉』と
『だれかに向けられた言葉』の
二つをちゃんと分けましょう。
アレルギーで苦しむなら、何を食べてはいけないのか知り、避けられるのは自分だけなのです。
質問者からのお礼
けいじょう様、佐藤良文様、回答してくださりありがとう御座いました。
僕もお二方の言う通り言葉というのはその言葉が本当に必要な人に適切に届けられる事が出来たらすくわれる人が多いのだろうと感じます。確かに僕が考えた例くらいまで考えちゃったら心がまいっているのサインかもしれないですね(笑)
僕の偏見かもしれないのですが、昨今の社会の状況を見てみると自己責任論があまりにも多くなっているような感じがして、別に人にたよってもいいんだよとそんな社会に対して一石を投じたくて相談させていただきました。
回答していただきありがとうございました!