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飛蚊症で集中が出来ない

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私は視界に透明な糸や点が見える、「飛蚊症」だと思います。
スマホを見ている時や外にいる時、飛蚊症でその糸や点をぼーっと見つめてしまって集中が出来ません。
どうすれば飛蚊症を気にせずに物事に集中が出来ますか?

2024年3月28日 22:24

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

見落としていることを見定める 見届ける 見つめてみる

※手前の側をみている時は、手前のものが気になるものですが、奥をみている時に手前は見えていない働きに任せる。
目の前にドミノがあるとします。今からそのドミノを倒し始めたとします。
すると人は、最初に倒れたドミノはもうどうでもよくなり、倒れているところに集中します。
眼鏡をかけている人はそのメガネの汚れや曇りがあってもその先にある見えているものを観ます。
池がそこにあるとします。
池の中に鯉が泳いでいます。
カメもウナギもいます。
池の中の様子だけを見れば池の中だけ。
池の水面映るお空や雲、建物が映る姿をみようとするとそっちだけになります。
池の水面にもアメンボやカエルがいます。🐸
池の水面におよぐものに目を向ければ池の底も水面に映るものの姿も見失われます。視点・焦点が変わるということです。
人間の視点の置き所を変えれば、見える世界も変わります。
眼は眼でありながらも自らの眼球を眺めることはできません。
立派な剣も自らの刀身を斬ることはできません。
ですが、人間は自分の心を柔軟にすれば、第三の道、活路を見出すこともできるのです。
私は眼の専門家ではないので、もし目の専門家の先生が「これは治療が必要だ」と言われるのであれば、治療をなさるのが良いでしょう。単にそれが気になりすぎてしまうだけであるというのであれば、それは眼病ではなく、そっちに気持ちがとらわれ過ぎているだけかもしれませんよね。
ドミノのたとえ、池の水面の喩えなどを通してご自分の視点、目の付け所を変えてみてください。お風呂などでもできるものです。
さて、最後に仏の眼のつけどころを。
眼がありながら目を忘れていたでしょう。
耳がありながら耳も忘れていたでしょう。
この文字を真剣にみていた時は飛蚊症のことも少しの間でも忘れていたのではないでしょうか。
人はものを観ながら、見えていながら心で取り扱っていることに視点が向かうものです。明日の朝、顔を洗うとき、あなたの眼は新たに流れる水をみるのか、顔に触れる水をみるのか、排水溝に流れていく過ぎ去っていく水をみるのか。
焦点を合わせる力があっても焦点の働きそのものも忘れ去られているはずです。
それでいいのです。
人はいつでも今優先していることだけをみつめているものです。
飛蚊症のことを忘れていたということは他のことに集中できていたのです。
見つめるべきは今そこの一点です。

2024年3月29日 0:14
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
少し自信が持てました!!

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