飛蚊症で集中が出来ない
私は視界に透明な糸や点が見える、「飛蚊症」だと思います。
スマホを見ている時や外にいる時、飛蚊症でその糸や点をぼーっと見つめてしまって集中が出来ません。
どうすれば飛蚊症を気にせずに物事に集中が出来ますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
見落としていることを見定める 見届ける 見つめてみる
※手前の側をみている時は、手前のものが気になるものですが、奥をみている時に手前は見えていない働きに任せる。
目の前にドミノがあるとします。今からそのドミノを倒し始めたとします。
すると人は、最初に倒れたドミノはもうどうでもよくなり、倒れているところに集中します。
眼鏡をかけている人はそのメガネの汚れや曇りがあってもその先にある見えているものを観ます。
池がそこにあるとします。
池の中に鯉が泳いでいます。
カメもウナギもいます。
池の中の様子だけを見れば池の中だけ。
池の水面映るお空や雲、建物が映る姿をみようとするとそっちだけになります。
池の水面にもアメンボやカエルがいます。🐸
池の水面におよぐものに目を向ければ池の底も水面に映るものの姿も見失われます。視点・焦点が変わるということです。
人間の視点の置き所を変えれば、見える世界も変わります。
眼は眼でありながらも自らの眼球を眺めることはできません。
立派な剣も自らの刀身を斬ることはできません。
ですが、人間は自分の心を柔軟にすれば、第三の道、活路を見出すこともできるのです。
私は眼の専門家ではないので、もし目の専門家の先生が「これは治療が必要だ」と言われるのであれば、治療をなさるのが良いでしょう。単にそれが気になりすぎてしまうだけであるというのであれば、それは眼病ではなく、そっちに気持ちがとらわれ過ぎているだけかもしれませんよね。
ドミノのたとえ、池の水面の喩えなどを通してご自分の視点、目の付け所を変えてみてください。お風呂などでもできるものです。
さて、最後に仏の眼のつけどころを。
眼がありながら目を忘れていたでしょう。
耳がありながら耳も忘れていたでしょう。
この文字を真剣にみていた時は飛蚊症のことも少しの間でも忘れていたのではないでしょうか。
人はものを観ながら、見えていながら心で取り扱っていることに視点が向かうものです。明日の朝、顔を洗うとき、あなたの眼は新たに流れる水をみるのか、顔に触れる水をみるのか、排水溝に流れていく過ぎ去っていく水をみるのか。
焦点を合わせる力があっても焦点の働きそのものも忘れ去られているはずです。
それでいいのです。
人はいつでも今優先していることだけをみつめているものです。
飛蚊症のことを忘れていたということは他のことに集中できていたのです。
見つめるべきは今そこの一点です。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
少し自信が持てました!!