何かを機に、自分をたまに見失います
こんばんは。
いつもお世話になっております。
高校3年生の頃から考えることはありましたが、最近になって再び、生きる意味を考えることが増えました。昨年に新しい環境、新しい暮らしが始まり、有難いことに友達もできました。最初は、友達ができたことに嬉しく、心の拠り所になっていました。ですが、時間が経つにつれ、価値観の違いがあったり、相手の良くない態度で、自分で自分を苦しめることが増えました。なんでそう思えるのか、私が何か気に触ることをしたのかな、と些細なことを無駄に考える時間を費やし、疲れ果てました。ですが、いざその子がいなくなると、寂しい部分もあって、今思えば、依存していたのかもしれません。4月からまた再び、新しい年が始まりましたが、彼女と話すことが一段と減りました。前回と同様、依存だと分かっていても寂しさがあります。他の友達といると少し羨ましがったり...でも、頭のどこかでは、もしかしたら、離れる縁なのかもしれない、離れていっても追いかけることないんじゃないか、無理にまた自分が楽しい時間と辛い時間のギャップを受けて、自分を苦しめるのではなく、自然に身を任せてもいいんじゃないかって考えがあります。
いい縁は例え別れてもいつか再開して戻ってくるはずって思ってしまいます。今繋がっている縁を大事にしながら、自分から離れていった縁は追いかけずそのままに。
また、もうひとつ考えることがあって、心の底から幸せだと思える瞬間を、一生を共にする相手と迎えたいなとより思うようになりました。胸が苦しいときは尚更、私には、辛い時、嬉しい時を共有できる伴侶が出来るのか、と思うようになり、以前より鮮明に伴侶は誰か分からないけれど、その伴侶といるときの自分の姿が浮かんでくるようにもなりました。この浮かんだ姿は、将来の本当の姿なのかなと思ってしまいます。
何を機にこれらの考えになったのかが、分かりませんが、私、ちゃんと生きられているのでしょうか。この今の自分が、自分ではないみたいで、たまに分からなくなります。本当の幸せ、掴むことができるのでしょうか。今でも幸せは感じています。でも、これは自分にとって、本当に幸せなのかなって思うことがあります。ご回答をいただけたら、嬉しいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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食べる時は食べる。寝る時は寝る。なりきる。
幸せって自分の欲を満たすことではないんですよね。希望や願い、思いの通りに物事が運ぶというのは稀なことで、基本的に思い通りにならないのが当たり前であるということを知るべきです。
友達との関係もそうだし、パートナーとのこともそう。たとえ休みが欲しいと願っても、あっという間にバタバタとしているうちにゴールデンウィークは終わります。そんなもんです。
人間も自然の摂理の一部、雨風地震などと同じ。生きる理由なんて関係なく川の水が流れるようにザーーっと流されていくのです。そこで手放しになれる人は幸せに気づけます。
思いを掴み私はこう思っている。こう願っているのに、、、と地に足のつかない生き方をしていると苦しくなります。
私たちはこの身をお借りして生かされている活動体なんです。そこに気づかれたお釈迦さまに学び、想いを握らず、思いはそのままに、比較せずその時その時のリアルになりきる生き方をしたいですね。
質問者からのお礼
お返事、ありがとうございました。
自然のままに、思いを掴みすぎないようにしていきたいと思います。確かに思いを掴みすぎると、地に足がついていないようでしんどいです。そのときの自然の流れを大切にしていこうと思います。
ありがとうございました☺️