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「こうあるべき」から離れられない。

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僕は禅に興味があり、断片的にではありますが、今年の3月頃から独学で禅の考え方を学んできました。

それで気分的に大分楽になれたので、些細な疑問や矛盾に気づいても気にせず良しとしていました。

しかし、どう行動するのが正しいのかを知るうちに「こうあるべきだ」と思うようになり、さらに「こうあるべきだ、などと思うべきではない」という無限ループにはまり込み抜け出せなくなりました。

そして今まで気にならなかった疑問や矛盾を気にし出すと、とうとう頭がパンクしてどうでもよくなってしまい、仏教を学ぶことにどこか疲れてしまいました。

昔からそういう風に正解にこだわる悪い癖があるのですが、どうしたらよいものでしょうか?

仏教を学ぶことで今までたくさんの問題を解決することができましたが、この癖だけは治りませんでした。

そもそもそんな独学などやめて座禅会等に行って指導を受ければ済む話なんですが、上で述べた正解主義のせいでお寺の規則や礼儀作法を間違えないかビクビクしてしまってまともに集中できなさそうです・・・。

そんな起こってもいないことを考えずに行動せよとも教わりましたがそれにたいしても「そうしなければならない」と考えてしまいます。

回答をいただければ幸いです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分の思いのフィルターを通してものを観ない

あなたはおそらく外の実質を観ていないのではないかと思います。
外に起こっている事の実質を観るという事は、あなたの私見を重ねずにものを観るということです。
それが禅の観点なのです。
いくら禅を学んでも、こちら側が、心が、自分が、ものを観る時に自分の考え方を通して取り扱っているようですと、禅者とは言えません。
怒られても、怒られたということがあるだけで終わらせることです。多くの方はそこから自分の思いで追い打ちをかけるのでしょう。ああしなければよかった、何であんないい方するんだ、ゆるせない…とかね。
冒頭に申しあげた、外の実質を観るという事をもう少し説明いたしますと、相手にも出来事にも、あなたの思いをいくら重ねても、あなたの思いとは無関係な活動をしているということです。いくらあなたが好きだろうがキライだろうが、こんな風に思われたらいやだなあと思おうが、それも全部あなたの思いの中だけのことです。禅を学んでもチカラになる人とならない人との差異はそこだけです。
アタマの中でやってるから修行にならなくなってしまうのです。
禅でいうところの修行は、自分の考えを差し挟まない行です。
良く自分の心うちを観察してみてください。こうしなければならない、こうあるべきだ、それらはみんなアナタが決めたルールなのです。自分の考えや思いのフィルターを通して物事を取り扱うことをやめてみてください。誰もそんな事を言っていない。誰もそんな事をやれとも言っていいない。全部、自分のセルフイメージの呪縛です。
インナーインナーなものの見方ではなく、今であっている実質をじかに、その場で、ダイレクトで、生で、LIVEで、現在進行形のまま触れてみてください。あなたのインナーコメントなど一切不要。それが、実物に出逢うということです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

知らず知らずのうちに、頭でっかちになってしまっていました。
回答ありがとうございます。
大切なことを思い出させていただきました。

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