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「こうあるべき」から離れられない。

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有り難し有り難し 14

僕は禅に興味があり、断片的にではありますが、今年の3月頃から独学で禅の考え方を学んできました。

それで気分的に大分楽になれたので、些細な疑問や矛盾に気づいても気にせず良しとしていました。

しかし、どう行動するのが正しいのかを知るうちに「こうあるべきだ」と思うようになり、さらに「こうあるべきだ、などと思うべきではない」という無限ループにはまり込み抜け出せなくなりました。

そして今まで気にならなかった疑問や矛盾を気にし出すと、とうとう頭がパンクしてどうでもよくなってしまい、仏教を学ぶことにどこか疲れてしまいました。

昔からそういう風に正解にこだわる悪い癖があるのですが、どうしたらよいものでしょうか?

仏教を学ぶことで今までたくさんの問題を解決することができましたが、この癖だけは治りませんでした。

そもそもそんな独学などやめて座禅会等に行って指導を受ければ済む話なんですが、上で述べた正解主義のせいでお寺の規則や礼儀作法を間違えないかビクビクしてしまってまともに集中できなさそうです・・・。

そんな起こってもいないことを考えずに行動せよとも教わりましたがそれにたいしても「そうしなければならない」と考えてしまいます。

回答をいただければ幸いです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分の思いのフィルターを通してものを観ない

あなたはおそらく外の実質を観ていないのではないかと思います。
外に起こっている事の実質を観るという事は、あなたの私見を重ねずにものを観るということです。
それが禅の観点なのです。
いくら禅を学んでも、こちら側が、心が、自分が、ものを観る時に自分の考え方を通して取り扱っているようですと、禅者とは言えません。
怒られても、怒られたということがあるだけで終わらせることです。多くの方はそこから自分の思いで追い打ちをかけるのでしょう。ああしなければよかった、何であんないい方するんだ、ゆるせない…とかね。
冒頭に申しあげた、外の実質を観るという事をもう少し説明いたしますと、相手にも出来事にも、あなたの思いをいくら重ねても、あなたの思いとは無関係な活動をしているということです。いくらあなたが好きだろうがキライだろうが、こんな風に思われたらいやだなあと思おうが、それも全部あなたの思いの中だけのことです。禅を学んでもチカラになる人とならない人との差異はそこだけです。
アタマの中でやってるから修行にならなくなってしまうのです。
禅でいうところの修行は、自分の考えを差し挟まない行です。
良く自分の心うちを観察してみてください。こうしなければならない、こうあるべきだ、それらはみんなアナタが決めたルールなのです。自分の考えや思いのフィルターを通して物事を取り扱うことをやめてみてください。誰もそんな事を言っていない。誰もそんな事をやれとも言っていいない。全部、自分のセルフイメージの呪縛です。
インナーインナーなものの見方ではなく、今であっている実質をじかに、その場で、ダイレクトで、生で、LIVEで、現在進行形のまま触れてみてください。あなたのインナーコメントなど一切不要。それが、実物に出逢うということです。

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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

知らず知らずのうちに、頭でっかちになってしまっていました。
回答ありがとうございます。
大切なことを思い出させていただきました。

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