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不安の克服の仕方

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有り難し有り難し 2

1年前から強迫性障害を患っています。
あれだけ好きだった車の運転ができなくなりショックを受けています。
どうしても建物に車を当ててしまったのではとか歩行者や原付きやバイクをひき逃げしてしまったのではないかと不安に襲われます。
流石にひき逃げは確実に警察に逮捕されるのでしょうか?
不安の克服の仕方があれば教えて頂ければ幸いです。

2024年7月24日 18:42

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

事故はぶつかった瞬間だけ。後は片づけだ。

この言葉は私が師匠から言われた言葉です。
私も交通事故をおこして車と共に凹んでいた時期がありましたが、この言葉で目が覚めました。
ああ、私はあの時の自己が今もまだあるかのように思い違いをしていた、執着をしていた、事実は終わっていたのに、頭の中で思い返して今を見失っていたということに気づきました。
私にはいわゆる慰みの言葉は不要でした。
大変だったね(´ー`)
無事でよかったね(´ー`)
不幸中の幸いよ(´ー`)
そういう言葉もあり難いと言えばあり難いのですが、車と共にキズ・凹みで修理が必要だった私を目覚めさせる導きは、真実だったのです。
修理。
修理とは仏教用語でもあり、理を修める、ただしい道理を修めるということでもあります。
人が本当に人として健全なありかたになるためには思考では修復ができない面があります。思考とはそもそも過去の事と未来の事しか考えていません。
今のことは仮にどんな早口な実況中継アナウンサーが上手に言葉で表現したとしてもそれは一面的な語りでしかないもの。人は今を最大限に幸せに、まっとうに、シラフに生きるべきなのに、そうなるためのツールとして思考を用いているからズレる。本当に踏むべきアクセルは今の事実を今の事実の通りに今日は今日でフレッシュに生きることがただしい理の修めなのにもかかわらず、思考でそれをやろうとしているから道に外れる、人間の安全運転違反になるのです。原点もの。教習所(お寺)にいって教習・講習(仏道修行=自己の安全運転の勉強)を受けなおす必要があるのです。

あなたにはこの表現が適切であるかどうかはわかりませんが、何度か念じてみてください。
タイトルのように、事故とはぶつかった瞬間だけで、今はもう今なのだ。あの時のことはもう終わって、その後も毎日天気から海の波から川の流れから草木やセミや蚊の飛ぶ位置やトカゲやヤモリの歩いている場所もみんなとっくに移り変わって変化しているのだ。そう。そしてこの自分。私も。とっくにあの日に食べたものではない毎日毎日別の新しいものを食べていたのだ。
もう、そのことはとっくに終わっているのです。
あなたに必要なことは事実確認。思考より事実を友として事実と共に生きること。
思いは勝手にあーだこーだと思いを走らせますが、事実ではない。
事実と思考との分類、見極め、仕分けも大事です。
思いは現実ではないのですから。

2024年7月25日 7:33
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

返信遅れて申し訳ございません。
事実、確かにぶつかった証拠も認識もないのに想像していては進めませんね。
豪雨で山道の国道だったこともあり知らないうちに轢いてしまってるのではと考えてしまいます。
克服できるように頑張ります。
ありがとうございました。

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