優しさについて
私の行動は、よく優しいと評価されます。そんなつもりじゃないし、私がしたくてしただけだから、優しいと言われるとすごく負担に感じて、モヤモヤした気持ちが残ります。
優しさは期待されます。その期待が怖いです。
アンパンマンがあんぱんをあげない日や、誰かを助けられない日があったら、それは許してもらえるのでしょうか。許してもらえるとしても、出来なかった事実は、誰かを傷つけてしまうことになるような気がします。
優しさって責任なんでしょうか。優しくするってことは、責任を持たなくちゃいけないんでしょうか。
責任が持てるほど私は優しい人間ではありません。優しくされて、期待して、傷つくなんて傲慢じゃないか、と思ってしまいます。
だからと言って、優しいと思われる行動はとるなと言われると、モヤモヤしてしまうんです。
私がわがままなんでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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分かるー
こんにちは。僭越ながら私も「優しいですね」と言われることがあります。で、それはやっぱり嬉しいのですけれど、その経験が積み重なると、「自分は優しくあらねば!」という足枷になってくるんですよね。
例えば、「こないだ1000円貸してくれたよね。だから、また今日も貸してね」みたいな感覚でしょうか。お金は「まだ返してもらってない」という返答の仕方もありますが、「まだあなたに優しさを返してもらってない」ということはオカシイので、違うことではありますけれど…!
ではどこが違うのでしょうか?
「したくてしただけ、だから」というのが正解です。つまり「見返りを求めていない」ところが異なります。仏教的には「布施行」と呼びます。
アンパンマンの例を出されていますが、助けられた相手が「アンパンマン、ありがとう」と言わなかったら…彼はどうするでしょうね。①「ありがとう、は?」と詰めるかも知れませんが、それは彼の満足のためではなく、相手が社会で生きていく知恵(助けてもらったらお礼を言うことで、より多くの助けを得られる可能性があるよ)を授ける意味で言うのでしょう。②「お礼なんていらないよ。だって、僕がしたくてしただけ、だから」と言うかも知れません、布施行ですね。
因みに「アンパンマンが助けない」ストーリーはありません。ありゃあくまで物語上のキャラクターですからね。シンボルにすぎません。
なので。
いつ頃からですか、「期待されているだけ優しくする」ことはやめました。「いま、できる分だけ優しくする」ことにしました。「1000円貸して」と言われても「今は300円しかないけど、それでいいなら」という感じです。勿論自分のお財布がピンチなら「ごめん、今はだめだね」も選択肢に含まれます。
あなたの問いにある「期待して、傷つくなんて傲慢じゃないか」は、その通りだと思います。「悪いね。でも今はダメなんだ」は言って良い言葉です。相手を傷つける?そうかも知れませんが、自分を傷つけてまでやることではありません。
そしてね、分からないけれど、あなたも人の優しさを頼って良いのですよ。ついつい「一方的に頼られる側」になってしまうことがありますが、人間関係の基本は「お互い様」です。こちらも頼り、優しさのキャッチボールが成立することで、よい関係になっていくと思いますよ。
その場その場で変えても良い
細胞は新陳代謝で入れ替わり、心は瞬間瞬間に浮かんで消えて、あなたは瞬間ごとに新しいあなたが生じて滅しています。
だから、その場その場で状況や気分に応じてキャラが変わってもべつに良いのです。
他人に何を言われても、1秒前のあなたへの悪口に1秒後のあなたが悩む必要はありません。
やりたいからやる。
それで良いではありませんか。
もちろん理論武装やポリシーを1秒後の自分にバトンタッチしていくことは可能ですが、ブレやムラがあるのもまた人間ですからね。
質問者からのお礼
お言葉、ありがとうございます。
人の優しさに頼ってもいいというお言葉を頂いて、私も誰かの優しさを受け取って今があるということを、再認識できました。
私の行動は、私の優しさは、、ばかり、愚痴なっていました。
誰かの優しさを認識することで、私のこのモヤモヤは消える気がします。そんなことに気がつきました。ありがとうございます。