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孤独で辛いです。

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前回の相談から

今の自分の役割から新たにプロジェクトを立ち上げ自分なりにはやり切りました。
個人としての結果は駄目でしたが、プロジェクトとしては無事に終了し、会社に多少のイノベーションは起こせたと思います。

その中で気づきもありました。
やはり自分はこの仕事が向いてないんだなと。

これまで自分自身に暗示をかけて天職だとずっと思いこんでました。

実際はそうではなく、会社や人にフォーカスする事で自分自身の実力の無さに対し無意識に蓋をしていたんだと。
会社の為とか人の為とかいつも何かのせいにしていたんだと。

今回のプロジェクトは自分の中ではやり切ったのですが、実力の無さを露呈され、現実を突きつけられました。

実力と役割が共わない矛盾に自分自身が気づいてしまいました。
今まで決してカッコつけたり、偉そうにしてきたつもりはありませんでした。
しかしそれはつもりだけで、そうしてきていたんだと。

こんな自分ですが抱えているものも
それなりにあります。
プライドだってあります。

これだけは信じて欲しいのが、会社や人の為に本気で向き合ってきたのも事実です。

それらを下ろしたとしても、周りの人は
成長していていますから心配はありません。

自分が会社や人に 寄りすがっていただけでした。

これからは自分自身にフォーカスして
自分自身の為に挑戦していこうと思っています。

ですが、もう気持ちが折れてしまいました。

つらくてくるしいです。

2024年8月12日 21:23

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

それは自分の描いた自分の物語。優先すべきはそっちではない。

マイストーリーを先立てていただけです。
現実がどうであれ、自分の中の自分ごしの世界、自分のフィルター越しの世界、自分の中のマイストーリーが洗い流されたのですよ。
だから、それは吉、善事、好転、プラスと捉えるべし。
そもそも、自分が頭の中で思い描いていたマイストーリーという砂上の楼閣なので、誰もそれを知らん。
ああ、自分が自分の中で自分流に勝手に思い描いていた現実ではなく俺の脳の側のマイワールドが消えただけだ、と。
あなたにとってはそっちがメイン・主と思い込んでいたのでしょうが、それは誤解。
たとえば、病気じゃなかろうか?医者に行ってみる。すると何でもなかった。
ところが本人は自分が病気なんじゃないかと思っているので、そっちを優先する。
医者に言われても信じない人もいますが、それが自分を優先している姿。
現代科学の最先端の検査をしても何でもなかった。
そこで初めてああ、自分の思い過ごしだったと気づく。
じゃぁ、それまでの妄想は何だったのか?
それが自己保身心理の生み出す心理作用なわけです。
ありもしないことを妄想する。
妄想というものは時に独り歩きをして飼い主と飼い犬の関係で喩えれば勝手に犬があちこち一人で行ってしまうようなものである。
妄想は主人公ではない。現実ではない。
人の頭の中だけにしか存在しないもの。存在すらしない。存在すらしないのであるが、本人の中では現実以上に重要視されてしまうことがある。事実の誤認である。
よくよく振り返って自分自身を見つめてみれば、確かにダメージこそ感じられたものの、そもそもが自分が自分流に想像して創造されたマイストーリーワールドであるから、現実ではないシナリオなのである。
そっちを後生大事に握っておるから脳がダメージを受けているだけのことである。誤認。本当は何も失ってもいないし、単に妄想サイドの脳内マイストーリーのシナリオが台本通りにならなかったから勿体ない感がしてへこんでいるだけのことであると思えばよい。実際そういうもんです。
ああ、そうか。そういわれてみればそうだな。俺は何か失ったような気がしていたけど、どこもケガもしていない。血も出てもいない。この坊さんの言う通り、何か自分の思い通りに事が進まなかったことにへこんでるだけじゃねぇのか?とよく自問自答してみることです。そこでもう一度タイトルを読み返すことです。思いと事実は別物。

2024年8月13日 21:10
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。

今まで成功体験がなく、何度も何度も失敗してきて、最後に挑戦した事も上手くいかず、諦めの境地を超えて矛盾に気づいてしまった自分。それを誰にも相談出来ない孤独感がありました。

自分の思い通りに行かなくて、へこんでるだけじゃないか?と自問自答をしてみます。

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