病気が辛い
30代から体の不調が続いています。
うつ、パニックから始まり、体の痛み、そして40代でがんになり、治療の後遺症(首の拘縮と全身の痛み、酸欠、骨壊死の可能性)に苦しんでいます。
大病の経験から限りある命であることを痛感しており、生きていられるうちに友達や家族、それから地球の美しい自然と楽しく過ごしたいのですが、体が終始苦しく痛く、何をしていても心の中では悲鳴をあげているような状態です。
体の苦しさは受け入れることが難しく、少しでも楽になりたい、これまでの自分の何が悪かったのだろうか、良くなるには何をしなければならないのだろうか、何かしないともっと悪くなる、という焦りようなものにとりつかれてしまっています。
体のしんどさ、壊死していくことへの恐怖をどう捉えればよいのでしょうか。
今は正直、体に拷問されているように思えてしまっています。
仏さまは私にもいるのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
全ては自分の心が決める
あなたの経験されてきた痛みや恐怖、そしてその中での希望を持ちたいお気持ちがひしひしと伝わってきます。お体の不調やご病気との闘い、本当に辛いものだったとお察しします。
あなたが抱える苦しみは現実的であり、誰しもが感じるものではありません。それにも関わらず、友達や家族、そして自然との関わりを大切にしようとする姿勢は素晴らしいものです。自分の限りある命を意識し、愛する人々や自然と過ごす時間を大切に思う心、そのお考えには真の強さが現れています。
お体の苦しさをどう捉えればよいのか、という問いについては、仏教的な視点から少しお話させてください。仏教では、苦しみを避けることが出来ないものと認識しています。そしてその苦しみとの向き合い方が大切だと教えています。私たちは「苦」を避けることはできませんが、心の中でそれをどう受け止めるか、どう向き合うかにより、その重さや質が変わってくるのです。
時には、今の苦痛そのものをそのまま受け入れてみることも必要です。受け入れることは、決してその苦しみに同意するわけではありません。それを感じる自分自身を温かく抱きしめ、理解しようとする行為です。自分を責めるのではなく、「これも自分の一部なんだ」と認め、一歩一歩を踏み出す心構えが重要です。「私が今感じているこの苦しみは、私を強くしてくれる要素でもあるかもしれない」と思うことです。
ご自身の日々の中で、ほんの少しでも心の安らぎや喜びを見つけることができる場面を探してみてください。例えば、穏やかな風、温かい日の光、心地よい音楽、優しい言葉。小さな喜びが積み重なっていくことで、少しでも心の安らぎが得られるかもしれません。
そして、「仏さまは私にもいるのでしょうか」とのお問いですが、もちろんです。仏様はすべての生きとし生けるものの中にいます。あなたの中にも、私の中にも、全ての人々の中に存在します。それは遠くの存在ではなく、あなた自身の中に芽生える優しさや慈しみ、そしてあなたが感じることのできるひとつひとつの小さな安らぎの中にあります。
最後にあなたが今感じている痛みや恐怖は決して軽んじるべきものではなく、心からの寄り添いと理解が必要です。どうか、自分を大切にすることを忘れず少しでも心穏やかに過ごせる時間が増えることをお祈りいたします。あなたの内なる強さと仏心が、少しでもあなたの安らぎと喜びを導きますように。
質問者からのお礼
宮本龍太 様
優しいご回答をありがとうございます。朝から何度も読み返し、泣いています。
苦しみをそのまま受け入れることは、自分を責めるのでは無く「それを感じる自分自身を温かく抱きしめ、理解しようとする行為」なのですね。これまでずっと、人並みに何もできず、人並みの健康さえ奪われ続ける、と自分の運命を呪い、人を羨み、自分の体の痛みをどこまでも責め続けてきた気がします。
少しずつでも、自分の病も苦しみも、温かく抱きしめられるようになれると良いなと思います。
このところ、あまりの痛みに寝転がって目を閉じているしかできない時、家族や友達の笑顔、ひとり歩いている時に包み込んでくれた自然の樹々や草花、風、綺麗な空などを思い浮かべることがあります。
少しほっとして苦しみが和らぐ気がするのですが、きっとそれが仏様なのですね。
宮本様が私にかけてくださった温かな思いやりも、これから大切に思い出させていただこうと思います。
貴重なお時間を使っていただき、本当にありがとうございました。
自死を繰り返し考えるほど辛かったので、お優しさが沁みました。