人に「死ね」と言ったかもしれません
小学低学年の頃、ある子に死ねと言って数年後その子が自殺してしまいました。
正直、昔のことすぎて「死ね」と言ったのかも曖昧です。「キモい」とか「消えろ」とかの可能性もあります。
その子の耳元で、小さく、そんな嫌な言葉を言ってしまったことは強く覚えています。
正直、深い関わりはありませんでした。必要があれば明るくは話すようにしていたと気がします。その子のことが少し気に食わなかったのだと思います。
その数年後、その子が自殺してしまいました。理由は知らされませんでした。でもふと「私があんな酷いことを言ったからだろうか」と今でも思ってしまいます。
今は、死ねなんて恐ろしくてとても言えません。また、理不尽なことがあると「昔私はもっと酷いことしたから当然かも」と考えます。
私は幸せになって良いのでしょうか?なる方法はありますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
生き方に問いながら、周りの縁ある方々を大切にしていけるように
なぜそんなことを…
悲しくて残念でなりません。
気に入らない人であっても、相手の尊厳を傷つけていいはずがありません。
ひとこと一言が覚えているように、相手にとってずっと刺さり続ける刃となるでしょう。
気に入らないのは相手ではなく、自分が気に入らないと見てしまっている捉え方です。どんな人にも良さがあるのにね、気づけていなかったのは、愚かな私の方であったと改めていきたいものですね。
幸せになっていいのかは、生き方に問いながら、周りの縁ある方々を大切にしていけるような あなたになってくださいね。
質問者からのお礼
ご回答いただきありがとうございます。
本当に私はなんて酷いことを言ったのだろうと思います。最低な人間だとずっとずっと思っています。
周りの人を大切にしながら、自分が愚かな人間だと自覚しながら生きていこうと思います。
改めて気付かされました。ありがとうございました。