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感情がない

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心が折れてなにもしたくない気持ちです。いつも誤解され悪者にされ親身にアドバイスしたら都合のいいように利用され正しいことをいえばあら探しされ叩かれ過去の間違いを掘り返され間違えたり失敗したら説教され責められ言い返すと全部私が悪くなり許せない気持ちを通り越してなにもしたくないです。でも、やらないといけないことや置いてきぼりにされてる気がするので焦ります。イライラして家族と喧嘩したりして私がまた悪者になります。いつも、私ばかり悪者にされ人を怒らせる天才やなとまで言われました。いつも私ばかり完璧を求められます。もう疲れました。どういきればいいでしょう。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

第三者として自分を見てみましょう

ご質問の文章を読ませて頂き、辛さが伝わって参ります。

何で自分だけ…そんな思いでいっぱいなのかもしれませんね。
お辛い事であろうと思います。
責められても怒られても、あなたはとても大事なあなたです。

しかし、念のために今一度ご自分を再認識してみるのも良いかもしれません。

人との会話で相手が怒るまでの会話を、全て紙に書き出してみてください。
そして、それを会話には関係ない人(別々に数名)に会話の主の名前を知らせずに見てもらいましょう。
そして、会話で怒った人がなぜ怒ったのかを聞いてみましょう。

別々に数名の意見を聞いて、その意見がほぼ一致していたとしたら、
もしかして、何か自分の意識の中では気づかない部分があるのかもしれません。
もし、それが認識出来たら現状を突破する事が出来ると思います。

私も含め人間は欠点をいっぱい持っています。
でも、それに気がつく機会は少ないです。
もし、気がついてその欠点を補って行く事が出来れば大きく人生が変わるのかもしれません。

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個別相談可能
仏道に入門して40年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さんだと思っております。 法昌という法名で、和歌山県の高野山の西禅院が所属寺院ですが、 普段は東京都町田市のマンションで手作りの密壇でひたすら修行を続けている  はぐれ行者です。 伝法灌頂も中院流の一流伝授も授了させていただいております。 娘を持つ母であり、一家の主婦でもあり、親の介護もあったりします。 エッセイや文章、そして漫画家として漫画も描いております。 イーハトーブクリニック萩原医師の指導をいただきヒプノセラピスト(催眠療法士)でもあります。 基本的に隣のおばちゃん的な、でも変わった尼僧です。
ご相談可能な時間はその日ごとに違うので、いくつかご都合を書いてくださいね。 人生で悩んだ時に、最善の答えを与えてくださるご神仏と、あなたは心の奥で必ず繋がっています。ご自身の心の中からご神仏のお答えが受けられるようにアドバイスをさせて頂きます。 ◆著書:「神さま仏さまがこっそり教えてくれたこと」「迷いをすっきり消す方法」「幸せを呼ぶ仏像巡り」

まずは親に怒らない。

あなたには劣等感があります。
その劣等感はなくせます。
厳密には劣等意識。
親に頭が上がらない、親が他人と私を比較する、親が私の非を責めて低評価をくだす。親からの自己評価がメチャ低い。それによって自分に自信が持てない。親に認めてもらわないとイケないような気がする。その重たい意識が常にあなたに重くのしかかってあなたを苦しめる。
その劣等意識を植え付けているのは親御さんです。
…でも、厳密にはあなたと親御さんとの対話の中で自分自身を劣等的立場に位置付けているご自身でもあるのです。だから親ばかりを責めちゃいかんです。あなたが自分を親から開放してあげればいいのですから。
親から認められようと思わなくていいのです。
あなたを評価するのは親御さんだけではありません。
世間には親から認められたくても、親が子供には越えられない無理難題、高いハードルを押し付けてしまっていることに気づかない親、越えられなくて苦しんでいるのに分かってもらえない、泣きたくても親から嫌われれうのが怖くて声にならずに泣いている子供が沢山います。
これは私独自の論ですが「天上天下唯我独尊」という仏教を代表する言葉は、現代的には「親は親。子供は子供。それぞれ独立した自由な存在。お互い子供や親から縛られずにい自由に生きてイイ存在。」と解釈することもできます。
誰もがそれぞれ個々の存在として、何ものからもワタクシされず、自由な存在であるということ。自分とはこうだ、こうでなくてはならない、という縛りがない自由な存在であるということ。この世の一切の存在が、人間の我見によってワタクシされることがあってはならないのです。親であっても子供は親のモノではありません。だから、今日からあなたは、親御さんから精神的に出家・独立をしてみてください。簡単に言うと大人の距離感を持つということです。親の支配から離れ、独立精神を持てば、まず、あなたが、あなたの親には起こらなくなります。
親をわたくし視したり、過度に家族意識を強く持って接するからこそ、腹が立つのです。
今日から、あなたが怒ったり、不機嫌にならなくなれば、親もあなたを子供扱いせず、尊重します。
大人になるためにも必要なことです。
それをしたうえで、今為すべき事にうち込んでみてください。
親の呪縛はもうそこにはありませんから、自分の力を発揮するだけです。プレッシャーはありません。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。

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