生き物の本来の姿に対する恐怖回答受付中
生き物の本来の姿とは、闘争と弱肉強食です。自分を存続させるために他者を食らい攻撃するのが生き物です。日本においてはこの80年が奇跡のようなものでしかなかったと、昨今の国際情勢が物語っています。
枯渇する資源を巡って奪い合いの世界では、力による現状変更が正当化される時代に逆戻りしてしまいました。いつどこで世界規模の軍事衝突が発生してもおかしくない、どこで核兵器が使われてもおかしくない世界になってしまいました。
しかし、私はこの仮初の平和に固執してしまいます。この命が終わった後に、またこの争いの世界に生み出されると考えると恐ろしくてなりません。しかし極楽浄土が現世に存在せず、私の命などといったものは脳味噌をはじめとした身体の生体反応でしかないという事実の上では、どうあがいてもこの絶望的な結論から逃れられず、狂いそうになります。
戦争に巻き込まれて無残に死ぬのは、これまで家畜や虫などを殺してきた報いなのかもしれませんが、どうしても受け入れることが難しいです。これはいけないことでしょうか。これまでの罪の報いとして受け入れなければならないのでしょうか。
今の国際情勢のすべてが、人間としての限界、人類史の終わりに向かって真っすぐ進んでいるとしか思えません。欲望を剝き出しにする権力者が己の行いを反省する頃には、この地球は焦土と化しています。今の国際情勢を見ていると、10年後、5年後があるとはとても思えません。少し調べれば、もうすべてが破滅に向かっていることがわかります。それに対し希望や問題の解決策が存在せず、希望と絶望を天秤にかければ大きく絶望に傾きます。
「平和とは、戦争と戦争の間の期間だ」という言葉があります。そして今、その通りの時代になっています。そして、人間は地球のすべてを破壊してしまえるほどの兵器を手にしています。身勝手な理論で戦争をしている国があります。生き物には元来いたわりや慈悲などというものは備わっておらず、あるのは自己保存のための闘争本能です。そして死んだあともまたこの世界の脳味噌、生体反応の何かが自分として存在してしまいます。つまり、私達は無残な死から逃れられません。それが恐ろしいのです。
「耐えきれなければちゃんと死ねる」かもしれませんが、死ねないまま生きてしまう可能性もあり、また、死に至る痛み苦しみは避けられません。これを恐れるのは良くないことですか?
苦しみが避けられない「生命」というシステムを心の底から憎悪し、「存在していたくない」としか思えない。 否定されるのが当たり前すぎて何もする気が起きず破滅思考気味。
お坊さんからの回答 1件
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妄想雑念が浮かんでは消えていく
心という映画館のスクリーンには、過去や未来に関する妄想雑念、自分や他人に関する妄想雑念の映画が瞬間ごとに浮かんでは消えていきます。
法然上人は「一人一日のうちに八億四千の念あり」と言われました。
24時間の心の映画は8億4千コマの画像(カット)からできているのです。
それくらい、心の変化スピードは速い。
そして、映画館のスクリーンが映画が終われば白い布に戻るように、心(思考や感情)も、妄想雑念が過ぎ去れば、静かな心に帰ります。
雲は月を隠せても月を壊せず、雲が過ぎ去れば何事もなかったかのように月が顔を出す。
ということで、過去や未来や自分や他人に関する妄想雑念、思考の堂々巡りは、一過性の映画であり雲であると気付いて、定期的に平和な心に帰りましょう。
戦争と戦争の合間の平和を楽しみましょう。
妄想雑念と妄想雑念の合間の平安な時間をリラックスして過ごしましょう。
南無阿弥陀仏と念仏を口に称(とな)える瞬間にも、心の平安は創りだせるのです。
なむあみだぶなむあみだぶ
妄想雑念で苦しむことは良くないことです。