実家の菩提寺
いつもありがとうございます。
私の実家の菩提寺は日蓮宗で、お仏壇には法華経を唱えております。
しかしながらこちらで質問させていただくにつれて、
般若心経のお話を聞いたり、禅のお話を聞いたりするようになりました。
このように宗派に関わらず仏教に触れても良いのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
カタチでなく、心で感じるもの
あおいろ様、はじめまして。日蓮宗の赤澤と申します。
私は以前北陸地方のお寺さまよりこのようなお話をうかがったことがあります。
「うちの寺の檀家は、御本尊に阿弥陀如来さまを祀っている」と。
お察しのとおり、日蓮宗のお仏壇に阿弥陀如来さまはお祀りしません。しかしそのお寺さまは何もいわず黙ってお勤めをされます。自分の心の中に日蓮宗の本尊があれば、それでよいと。
北陸地方は浄土真宗のお寺さまがとても多い地域です。そのお檀家さまも小さなころからこのお仏壇に手をあわされている、自宅の仏壇にお祀りされている本尊と菩提寺の本尊が違うことに違和感をもたれないこともそのお方の信仰なのです。先祖代々昔から拝んできたものを自分の代でかえることなどできない、というお気持ちを私どもは妨げることはできません。
仏教はカタチではなく、心で感じるもの。どうか心に響いた教えに触れてみてください。
まったく問題ありません。そもそも仏教は、普遍的道理への目覚めをもって、私たちが自縄自縛に陥っているところからの解放をめざすものであり、一部の宗派や人間のつごうによる束縛には妥当性がありません。生きて行く過程における縁はすべて、み仏との縁であり、気づくか気づかないかは自分自身のありようにかかっています。昨夜のNHKテレビ「ハートネットTV」において、印象的な発言がありました。深刻な家庭環境で苦しむ女子高生へカウンセラーが諭します。「自分が変われば過去も変わる。意味のある過去になる」。この考え方は、表面的には仏教哲学の基本的部分と異なっていますが、見知らぬ女子高生同様、小生の心へも深く降りて来た何ものかがありました。霊性へ響いてきた宝ものをきちんと把握し、醸成させ、納得の上、今後の人生相談に生かそうと思っています。仏法は、しなやかで、無限に変化向上してゆくものです。どうぞ、自在に、お救いを受けられますよう。合掌※詳しくはブログ『想いの記』内「過去は変えられる」をご笑覧ください。
信仰の自由は憲法で保障されております。
禅や般若心経に関わることは嬉しい限りです。大いに行って欲しいものです。遠慮はいりません。基本的に自分が癒されることしてください。人によっては坐禅かもしれませんし、念仏かもしれません、題目かもしれません。自分が合うことをしましょう。ただ、人が違うことをしていても自分と合わないからといって否定したり嫌悪感を持つなら、仏教に関わらないようにしてください。
ただこのことが自分のブームに終わらないことを祈ってますが、苦しくなったら止めてもいいと思います。また、したくなったら、行えばいいのです。それを繰り返しながら、自分の中で色々考えることもあるでしょう。
菩提寺はご先祖様が代々信仰してきたものでございます。自分の好き嫌いや迷いで信仰を止めないでこれからも守っていって下さい。
実は妙法蓮華経と般若心経と禅は共通している
これらはそもそも異なるものではありません。
妙法蓮華経の示している中身は最終的には「いま、ここ、このこと」です。
お経はあくまで、レシピ、実践法ですから、宝のありかを示しています。
宝のありかはお経の方ではなく、「いま・そこ・そのこと」すべてです。
妙なる仏の法。レンゲのようにドロ沼から咲いて泥に着かざる心とは、人間の心の本来の性質。
その心を以ってこの世を観ればすべてが妙蓮華。
般若心経の後半部にギャーテーギャーテーとありますね。
それもまた角度を変えて同じことを示しているのです。
日本の禅の大宗師、道元禅師は、その師匠の如浄禅師とのやり取りの中で師の如浄禅師がつくった偈の真意を悟り絶賛されて見解を述べられています。
その問答が宝鏡記に記されていますので一度ご覧いただけると幸いです。
「風鈴の偈」
渾身似口掛虚空 この心身は風鈴のように全身が口に似て法の海に浮かぶ
不問東西南北風 どんな出来事や情報の風をうけてもそれを厭い嫌わず
一等爲他談般若 風邪を受けては等しく他が為に妙音を奏でて、それそのものを示している
滴丁東了滴丁東※ ていちんとんりゃん♪ ていちんとん♪
この最後の風鈴が鳴り響くさまを如浄禅師は、我々が日常体験しているすべての出来事ととしてあらわしています。
ギャーテー…というのも、この音※に通ずるものです。
わたし共の目の前に常にある一切が、チリンチリンであり、ギャーテー…の示している❝真実❞なのです。
風鈴の鳴る音がチリンチリンとなるように、我々の現実には、いつでもそのものがそこにごろんところがっているではありませんか。ちなみに私の今の目の前には扇風機がびゅぅぅぅ…と般若を談じ、コオロギたちがリーンリーンと般若=妙法=妙音(真実)を奏でています。
摩訶般若とは仏の素晴らしい知恵がこの世のどこかにあってそれを会得すると悟るような図式であると多くの方は思っています。
ギャーテー…の訳も「往けるものよ、往けるものよ…云々」と訳されているものが多いですが、禅宗風には、それは理屈で誤った解釈であると思っています。
妙法蓮華経とは、真実を知る智慧、すなわち妙法蓮華心。
摩訶般若波羅蜜とは智慧の意にして、既に彼岸、真理に到っているという意味です。
禅というは、今万人がふれている眼の前の事、それと等しくなるさまを禅というのですからみな共通しているのです。
仏教全般をバランス良く学ぶこと
あおいろ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「宗派に関わらず仏教に触れても良いのでしょうか」・・はい、誠に構わないことで、むしろ重要なことでございます。
仏説は、「八万四千の法門」と言われますように、膨大な教えがございます。そのため、ほんの一部分の教えだけを取って、これが正しい、あれは間違っているとは一概には言えないところもございます。そのため、安易にこの宗旨の教えだけで良い、この考え方、この解釈だけで良いとは思われずに、できるだけ仏教全般をバランス良く学ぶことをお薦めさせて頂いております。
そして、その中で、慎重に吟味して合理的なる検証も繰り返して、納得して受け入れられるものは受け入れ、どうしても納得して受け入れられないものは受け入れないようにしていくという姿勢も大切なことになるのではないかと存じております。
また、仏教は実践思想哲学的な側面も強くございます。学んだことを実践して活かす中で、更に学びと実践の修習を平行して進めていくことが必要となります。
また、下記各問いの拙回答も色々とご参照頂けましたらと存じます。
問い「なぜか一つに決められないんですが・・・・」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002969128.html
問い「宗派にとらわれない仏教思想の学び方について」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002944760.html
問い「貴方が「この教えは現代に合わない」と思った事を教えて下さい」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002902054.html
拙回答カテゴリー「各宗派の教えについて」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_319881.html
是非、共に頑張って仏教を学び進めて参りましょう。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
遠藤住職様、ご回答どうもありがとうございました。まったく問題はないということで、安心いたしました。実は、私は以前からご住職のブログを拝見していましたので、今回私の質問に答えていただき、ありがたい縁を感じております。現在、自分の過去のすべてを悔いておりますが、善行をできるかぎり重ね、自分を変えることができるようにと日々努めていきたいと思います。
大鐵様、丹下様、赤澤様、皆様ご回答ありがとうございました。仏教の様々な教えに触れ、少しでもまっとうな人間に近づけるように努めていきたいとおもいます。