向き不向き・努力との向き合い方回答受付中
小さい頃から絵を描くことが好きです。
プロを志して専門学校に入学しましたが、体調が悪化して半年ほどで中退しました。
就活を教わる機会を失い落ちぶれたり鬱になったりと数年ほど彷徨った結果、アラサーとなった今は独学で描きつつ、趣味ともプロを目指しているとも言えないようなぼんやりとした創作活動をして生きています。
悩みは、自分の作品を好きになれないということです。
有難いことに人から評価していただくことは多いです。でも自分では全く満足いきません。
描くことは昔から好きだったのですが向上心が芽生えたのが大人になってからで、その頃にはもう自分の手癖が固まってしまっていました。しかも自分では良く思えないタイプの手癖です。
好きな雰囲気だったり流行りの塗り方に憧れても、自分の絵をそこに沿わせるのが難しい、みたいな。
そもそも憧れって自分から遠いことが多いので、仕方ないとも思うのですが…
憧れれば憧れるほど自分の絵が変で惨めで下手に見えて、一回死んだら全部リセットされるかな?と考えてしまうほどで。
例えば「自分の絵はポップな雰囲気だけど綺麗な雰囲気の絵を描いてみたい」のような、”合わないかもしれないこと”への挑戦に対する恐怖の気持ちもあるように思います。
色々な描き方を試して形にして発表できる人たちが本当に羨ましいです。
伝えたいことがぐちゃぐちゃになってしまいました…
お聞きしたいのは、
・「向き不向き」との向き合い方(不向きなことに挑戦してみたいけどやっぱり合わないとわかってしまうことが怖い)
・そもそも努力することが怖い(大人になって自分のレベルの低さを知り、20年やってきてこのざまなのにこれから努力してどうにかなるの…?という絶望感が消えない)
という点です。
完成したものを見て落ち込むのはやっぱり嫌なので、出来れば自分の作品を好きになりたいです。
何かおすすめの心構えや考え方がありましたら教えていただきたいです。
よろしくお願いいたします。
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
望みとは我欲ではない。悪いものではない。純粋な望みに忠実に。
音や書や絵や彫刻、アート、作品には一応「こういうことを表現したい」ということがあるのではないかと思います。
質問もそうです。あなたは無心に質問したでしょう。
こういうことを聞いてみたい、知りたいという心が表に現れてこういう質問になったはずです。
絵をご飯に喩えてみましょう。スイーツに喩えてみましょう。パスタ、ラーメン、麺類に喩えてみましょう。どんな風にしたい?誰から必要とされるようなメニューにしたい?
どんなテイストでどんな風味にするか。
人気の小説やマンガ、動画でも「共通する感覚」があるからこそ、そこに浸透して共感を得て、人気が出るわけでしょう。つまり作者のメッセージや伝えたいことが作品の前にあるということです。
あなたが今抱えておられるモヤモヤや、人にお伝えしたいこと、表現したいことを先に意識をしてみると良いでしょう。
人生において苦労をされた方でも、その苦労の中でそれを乗り越えられた。そのことをお伝えしたいと思って、このようにすればクリアできるんだよということを表現しておられる方もおられます。
・「向き不向き」との向き合い方…むかないことをやっておられる方は少ないものです。人間は正直で、理数文系でも脳が異なります。無理してやらない方がイイでしょう。
・そもそも努力することが怖い…努力をすることを否定する必要はありません。仏道修行でも間違ったアプローチをし続けることがアウトなだけです。坐禅一つでも9割の人がきちんとした指導者にあえずに空振りするのです。
「なに」を努力するか。「どこ」を独力すべきか。「どのように」努力するのかを問わないから、努力の仕方が分からなくなっているだけ。
わたしは今日、何をするか。如何にそれをするか。
🌰この時期の栗でも上手な取り出し方を知らないとたった一個の栗を取り出すのも物凄く時間がかかります。努力が間違った形をやり続けていれば、栗も取り出せません。成果を出すには、きちんとしたやり方というものがどんな分野にもあるということなのです。
救急隊の消化活動でもそうです。
筆の洗い方一つもそうです。
ちなみに「人間だもの」で広く知られているあいだみつをさんは、ちゃんとした字も普通に書けるのです。普通に書けるのですが、あのような表現方法に行きつかれたのです。あなたのベースから、そのアウトプット方法、表現を変えてみましょう。アラワすのです。
一通過点として
拝読させて頂きました。
あなたのお悩みを読ませて頂きました。あなたが理想を求めて今の自分とかけ離れているように感じてしまいとても辛い思いをなさっておられるのかと想像します。詳細なあなたの状況はわからないですが、あなたのその辛い思いを心よりお察しします。
生きている中では確かに向き不向きがありますよね。私も自分がなかなか仕事に向いていないなと感じることがあります。そんな中でも自分にできることは結構あるんだと感じることもあります。自分にできないことやうまくいかないことでつまずいてしまったり劣等感を感じて落ち込んでしまうこともあります。それでも少しずつですが自分にできることはあるんだと仕事していく中で実感しながら成長していくこともできると思います。どんなふうに成長したり変わっていけるのかはやっていく中で少しずつ見えてくることですからね。
努力することもできる努力もあるでしょうし、できない努力もあると思います。できないことにずっとしばられていたりこだわっていてもなかなか伸びてはいかないでしょうから先ず自分が思いついてできることから始めていけばいいでしょうし、そのから伸びしろというか成長過程も様々に広がっていくと思います。なかなか苦手意識もあるかもしれませんけれど、先ず自分でできることややってできそうなことを進めてみてはいかがでしょう。
やっていく中で意外なところで転機が訪れて大きな変化を遂げることもありますし、積み重ねてきたことにウソはありませんからね。きっと素晴らしい形になっていくでしょう。
そしてどんなものも完全な完成はありません、本当の完璧はないと私は思っています。ですからどれも成長過程の中にあるものだと思います。自分自身の成長や変化の一通過点ですからね。
あなたがこれからも試行錯誤研鑽を積まれてあなたらしく変化を遂げていかれますように、その形があなたの生き様として素晴らしく反映されていきますように、あなたが心から充実した人生を生き抜いていかれます様に切に祈っております。そしてあなたを心より応援させて頂きます。至心合掌
自分の絵を好きになれないとき─仏教が示す心のよりどころ
絵を描き続けてこられた中で、自分の作品を好きになれず苦しまれているお気持ち、よく伝わってきます。真言宗の教えを背景にしてお答えします。
1. 「向き不向き」と挑戦について
仏教では「縁起」といって、すべての現象は因縁のつながりで成り立つと説きます。絵の「手癖」や「雰囲気」も、これまでの体験・好み・練習の積み重ねから自然に生まれたものです。それは「あなた固有の縁の花」であり、誰にも真似できない表現です。憧れる方向性に挑戦して「やはり合わなかった」と気づくこともまた大切な学びであり、仏教でいう「方便(ほうべん)」。真理へ近づくための一時的な道具なのです。無駄な努力は一つもありません。
2. 努力への恐怖について
「20年やってこの程度」と思われるのは、人と比べて「成果」だけを見ているからです。仏教は「果」よりも「因」を重んじます。すなわち「どんな結果になるか」よりも「どのような心で今この一筆を描いているか」が尊いのです。描くたびに「これは修行の一環だ」と捉えれば、不完全さもまた修行の証になります。
3. 自分の作品を好きになるために
真言宗では「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」を説きます。これは「この身このままで仏である」という教えです。あなたの絵は未完成だからこそ尊く、悩みや恐れが混ざりながらも、その瞬間の心を写した「仏の姿」でもあるのです。絵を見て落ち込むとき、「これは今の私の心の形だ」と受けとめて、そこに手を合わせる気持ちを持ってみてください。
4. 実践のすすめ
描き始める前に、心を鎮めて深呼吸し「今日の一枚も修行です」と唱える
完成後に「よくぞ形になってくれた」と一礼する
気に入らない部分も「これもまた因縁の現れ」と受けとめてみる
まとめ
絵はあなたの「心の鏡」です。鏡に映る姿に満足できない日もありますが、その姿を受けとめることが、すでに仏道の一歩です。好きになろうと力むよりも、「この不完全な一枚が、今の自分を映している」と観じることから、次の筆は自然に軽くなるでしょう。
合掌