仏教用語を使わずに仏教精神を伝えられるか
久しぶりに質問させていただきます。以前相談させていただいたことは、おかげさまでその後少しずつですが好転の方向に向いてきました。私自身の考え方とも少しずつ向き合って、まだ苦しむ時間は少なくありませんが、自分の考え方の癖に気づくことも増えてきました。
今日は、昨年から通っている、とあるスクールの考え方について質問します。
そのスクールは仏教系で、創始者はお坊さん、その弟子で現在の経営者兼講師の方は得度しています。経営理念は仏教の慈悲で、講座のたびに時間の半分以上を使って仏教の心構えを教わる時間があります。
私も受戒しており、そのこと自体はかまわないのですが、経営者の方の教え方は、仏教用語を使わずに仏教的精神を持った人間を育てようとするもので、多くの受講生が教えられることを上手く飲み込めずにいます。
受講生の中には仏教徒もいますし、そうでない人もいます。仏教についてよく知らない人には、話されていることが難しくてわからないこともあるようです。
そのスクールではお寺でボランティア活動や法要に参加することがあり、仏教の精神に基づいて行動するよう求められるのですが、多くの人がどう振る舞えばいいのか迷いながら活動しています。
中には仏教について無理解な発言をしてしまったり(たとえば生前受戒した人に対して、「いつでも死ねるね!」など)、場をわきまえない行動をしてしまったりして、お檀家さんの中には白い目で見る人もいます。
講師の方がなぜそうしているのかはわかりません。自分は仏教用語を使わずに教えられたからなのかもしれません。
ただ、言葉を使わずに中身だけを伝えて、仏教の精神を体得した人を育てることは可能なのか、疑問があります。お坊様方のお考えを伺いたいです。
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
用語って名前やキーワードみたいなものですよね。たとえばあなたのことをミルミルさんと呼ぶように。物や映画や音楽にも名前があるように。もし名前がなかったらかなり不便になるような気がしますよね。
仏教精神を教えるのに仏教用語を使わないのは一般の方向けの話ではたまにあります。ですが用語を使わない場合は分かりやすいけど覚えにくかったりします。
用語やキーワードがある方が覚えやすいんですよね。頭の中でも整理しやすい感じがします。
なので、仏教用語を使わないのはいいけど代わりになるキーワードを用意してあげた方がいいのかなと思いますね。
なお、得度は入門しただけなので人に教えるレベルではないと思うけど、大丈夫かな・・・。
仏教を知識として知るだけでなく体得するには実践が必要です。
仏教の精神を体得した人っていうのは案外仏教を机上で勉強している人ではなく、誰かのために社会のために毎日何かを頑張っている人なのかもしれないですね。
菩提心のない仏教 道心のない仏教は 残念な人我教になりやすい
マインドフルネスは悟りや菩提心宗教精神を削り取ったイイトコドリの瞑想で、そういうことをした結果、人間性教育にはならなかった。
結局最初の時点でそういうものを削り取ってやろうとする人間の精神がエゴだからです。神仏の精神とは人間の我欲やご都合主義、ウマくやろうとすること、神仏の精神を自分・オノレ・ワレ・オレオレ意識の為に用いてウマくやろうとすることというエゴイズムであるということでしょう。
仏教語を用いずに仏教の教えを説くことは可能です。
大切なのは仏教精神、宗教精神、菩提心、道を求める心、信仰心、道心、人間性を向上させんとする精神があるかないか。ない。ないから、人は道に外れてしまうということがあるということが人間のエゴの道だ、ということがおよそ実証され、あなたのまわりの方々も「そうだ」ということなのではないでしょうか?
中には道心・菩提心がちゃんとある人は、そういう世界で学んだとしても人の道に外れるようなことはないでしょう。
ある老師の元でちゃんと道理を弁えて老師からも認められた人がいましたが、結局出家もせずに在家居士のまま坐禅指導をしている人がいます。
老師のお手伝いをされる僧たちは、ちゃんと髪も髭もそって出家してやった方がイイと言っていましたが、本人は「出家をしたくない」というスタンス。結局、どっちつかずと言いましょうか。僧侶を生み出せない、宗教精神を持った人を生み出せないという指導の在り方になってしまうので、ああ、禅や仏教を説明する、説ける、伝えることはできても、お寺や仏教の支えになる人は生み出せていないのだなぁと感じ、その人とは関わっておりません。別に出家こそ最上だ、素晴らしいというわけではありません。出家した僧侶のなかにも中途半端な人は大勢いるでしょう。
ですが、在家スタイルのままやるということがどこまで「どう」「どのような」作用や結果が生み出されるか?と問えば、おそらく指導された人たちのその最終形がどうなっているかを見れば、そこが一番の答えかと思います。
仏教の優れた指導者の元で教えを学んだぁ、
よし、オレも仏教の指導をするぞぉ、
弟子も増えたぞぉ、
その弟子たちがオレの活動を支援してくれるぞぉ、
で、
結果、そこの組織をヨイショする形になる。
お釈迦様よりも祖師よりも個人が偉くなる変なカルトめいた教えとかって新興宗教にはありますよね。
王道は王道。
難しい(効率が悪くなる)
四諦八正道、煩悩、不浄・苦・無常・無我、涅槃、五蘊、一切(六根・六境・六識)、三界(欲界・色界・無色界)、身口意の三業、戒・定・慧の三学、慈・悲・喜・捨の四無量心、六波羅蜜、功徳、回向など、基本的な仏教用語は使った方が便利な気がします。
また、阿弥陀仏や極楽浄土、本願、口称念仏などの浄土教の用語に至ってはほぼ固有名詞なので、それらを使わないと目指す目的について話せないかもしれません。
なので、私は、仏教用語を使わずに仏教精神を説く場合、効率が悪くなると思います。
仏教を学びたい生徒さん達にとってはデメリットかもしれません。
学校側が仏教系であることを前面に出したくないとか、宗教と聞いただけで拒否する人もいるから等の理由があるなら仕方ないかもしれませんが。
もちろん、仏教の真理は普遍的なものなので、仏教用語を使わずにその精神を伝えることは可能だとは思います。
hasunohaの回答僧の皆様の回答も、そのような工夫の宝庫だと思います。
質問者からのお礼
聖章様
ありがとうございます。
その方は体得はしているかもしれませんが、やっぱり用語やキーワードなしでは言葉がぼんやりしてしまって、何が言いたいのかわからないことが多いです。
得度はまだ教えられるレベルではないのですね。だから仏教用語を使わない(使えない?)のだろうか、と思いました。
丹下覚元様
ありがとうございます。とても的確なお話でした。たしかに、名前が要らないから名前を削って中身だけ伝えようというのはエゴだと思いました。
指導された人たちの最終形…おっしゃる通りです。ボランティアの古参ですが、お釈迦様や祖師ではなく経営者兼講師の方を崇拝していて、スクールで学ぶことではなくても何でもお手伝いします、というスタンスです。経営者の方も、自分についてきてくれる人を大事にすると明言しています。それを聞いた時、まるでカルトだなと嫌悪感を感じましたが、今改めて同じように思いました。師匠である住職を越えたいと公言しています。住職の名前は時々口にしますが、お釈迦様のことはしゃの字も出てきません。
スクールの技術は学びたいのと、ほかの先生(今の経営者が育てたのではない)のことは尊敬しているので、その方たちから吸収するつもりで卒業まで続けようと思います。
願誉浄史様
ありがとうございます。おっしゃる通り効率が悪いと思います。私も時々、その方が何が言いたいのかわからないことが多いです。振り返って考えて、ああ「正見」について言おうとしていたのか、と思ったりです。
お寺が始まりであることはホームページに載せていて、講習にはお坊さんが来て五体投地の礼を全員でやります。なので仏教色を隠しているわけではないです。受講生の中にはお寺の住職が開催している仏教の勉強会に参加している人もいるのですが、経営者は良く思っていないようです。自分のところに集中してほしい、そっちの学びの答え合わせをこっちでするな、と。



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