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仮に六十二見が邪見としても回答受付中

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有り難し有り難し 4

お世話になっております。
引き続き救われる道を探して仏教を学んでおります。
梵網経を知り六十二見について考察しております。
その中で断見というのがあります。
例え断見が邪見としても、法や因縁なるものを断ち切っても、断滅した方が得ではないでしょうか?
その点はどうお考えか、皆さまの内なる仏にお伺いしたいと思います。
「これこれこういう理由で断滅しない方が得ですよ。」というのを明確に提示できれば、私も含めた衆生を皆救うことができると思いませんか?

2025年12月19日 7:38
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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

断滅するかしないかは自分の意志で思い通りにできるものではありませんよね。
ですから得とか損とか考えるだけ無駄な時間だと思います。
「良い行いをすればこの世でもあの世でも楽になる」という釈尊の教えを考えた時、断滅とかあれこれ仏教用語や来世に執着せずに今自分にできる善業を努めることに意識を集中することが結果的により良い人生になりよりよい来世になり得になるのではないでしょうか。

2025年12月19日 11:57
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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

断見は因縁を「断つ」のではなく「無い」という見解では?

少し混乱があるようですが、梵網経の六十二見にある「断見」は、今生の生命の我は、地、水、火、風が寄り集まって生じた身体が壊滅することによって断滅し以後は存在しないという見解です。「法や因縁なるものを断ち切」るのではなく、そもそもそんなものは無いとしているのです。
生命の働きは今生で身体が活動しているその間だけのものだから、その中でできるだけ幸福を追求するしかないということです。

生命の身体は個々に活動していますから、幸福を追求するにあたって、極端に我利我欲に走って他を利用し尽くす場合もあるでしょうし、逆に利他の行いに集中して他に尽くし切って幸福を感じる場合もあるでしょう。趣味に没頭したり、仕事に集中したり。生命の幸福追求の形が個々バラバラになることは経験的に予想できます。
では、こうした個々バラバラの幸福追求の形が生じるのはなぜか。断見の見解ではうまく説明できないように思います。「それぞれ違う環境で、それぞれ違う親から生まれて、それぞれ違う経験をするから、当たり前だ」と言うなら、それはまさに「因縁」ではないでしょうか。過去の生命によって生み出された境遇が、因となり縁となって今生の我を生じさせ、活動の方向を道づけるなら、それはもう因果論になってしまいます。
「いや、それぞれバラバラなのは偶然そうなるだけだ」と言うなら、なぜ人からは人しか生まれないのでしょうか。地、水、火、風がたまたま偶然集まったり離れたりするだけだというなら、人のお母さんのお腹から犬や猫やミミズやミドリムシが生じないのはなぜでしょうか。犬のお母さんのお腹からはなぜ猿やカブトムシが生まれないのか説明できません。

そういうことではなく、「法や因縁なるものを断ち切」るというのは、法や因縁の縛りから解放されて二度と我として生じないようにしたいのだということであれば、釈尊が説いている解脱への道が丁度、それにあたります。
今生の生命の志向や振る舞いが次の生命を生じさせる業を形成するのですから、それを滅尽するように勤めましょうというのが釈尊の教えだと思います。

2025年12月19日 18:13
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有り難し
おきもち

新潟県上越市、龍興山宗恩寺住職。

質問者からのお礼

有難う御座います。断滅するかしないかを自分の意志で思い通りにできないというのが絶対の真理であれば、諦めて徳を積むしかありませんし、断滅を願うことが悪業になるのであれば、即刻考えを止めるべきですね。
すべてを無かったことにして消えたいと思っている人は調査した限りでは私も含めて30人に1人くらいは日本国内にいます。
因果応報が真理でも、断滅までは決められないのが絶対であれば、貴方様のおっしゃることが真理になります。

百目鬼洋一様
ご教示ありがとうございます。
 
貴方様が仰っているのは、「断見というのは、法や因縁があるのに、無いと主張すること」であり、「法や因縁を断ち切って、二度と我として生じないようにすることは、断滅ではなく、解脱ということだ」と仰っていると理解しました。
 
私の考えとしては、法や因縁、因果応報、輪廻転生というものはあると信じていますので、私は断見という考えではないことになります。
そう考えますと、解脱と断滅の違いが、状態として目指しているところは、本当は同じことを言っているように思ってしまいます。
 
但し、あるサイトには、解脱というのは永遠に続く(常見)という考えや完全な終わり(断滅)という考えから離れて、どちらであっても気にならないという心の有り方であると書いてあったので、確かにそのように考えると、解脱が不断不常の中道であり、思い悩まなくなり幸せになれそうだというのは納得できます。
 
納得できるものの、解脱以外の道として、断滅ではいけないのかの理由が知りたいです。
現世での心の在り方が解脱ということだとしても、輪廻転生があって死後に浄土や地獄に行くのを繰り返してしまうと、不幸な時点が生じるかもしれないので、それを避けたいということです。
 
私が今回の相談で解決したいのは、「これこれこういう理由で一切を終わりにしない方が得ですよ。」ということです。
地獄の苦しみを味わう時期があったとしても、一切を終わりにするよりも存在していた方が得ですよ、というのが知りたいです。
 
もしくは、少し譲歩して言うなら、自らの行いによって地獄に落ちることもあるかもしれないけれど、存在していてほしいと明確に伝えてもらえたら考えを変える可能性はあります。
しかし仏は法の下で自分のことだから自分で決めなさいと因果応報の世にしたわけですから、そんなふうには思っていないのかもしれません。
一方で、断滅を選べないのはそう思っているからかもしれず、この点の真理を明確に知りたいです。

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