神事での態度について回答受付中
いつも有難うございます。
今日は節分で 氏神さまの
神事、豆撒きに行きました。
夫は、写真を正面から撮り
(今回は撮ってもいい様でした)寒いのか ポケットに手を入れていました。
脇から見てたのですが
外国人の方以外は、老若男女皆、手を前にくみ神妙な感じで神事をみておられました。
なのに夫は写真を撮る事に
集中してます。
夫は闘病中で 今とても治療がうまくいっています。
私が無理やり誘ったわけでもありません…大体いつも、こういう感じです。
お行儀はいい方の夫なのですが 寺社仏閣での振る舞いが
嫌で注意する私もなんだか…
結局、私が心配しているのは
罰があたらないか…です。
治療がうまくいっている
お礼をしたいだけなのに…
お坊さんからの回答 1件
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うまくできなくても、感謝は届いている
ご相談をお寄せくださり、ありがとうございます。
節分の神事に足を運ばれ、ご主人さまのご病気が良い方向に向かっていることへの感謝を、きちんと届けたい――その一心でおられたからこそ、ご主人さまの振る舞いが気になり、「これでよかったのだろうか」「失礼になって、罰があたるのではないか」と、不安が胸に残ったのですね。そのお気持ち、とても自然なものだと感じます。
お話をうかがうと、ご主人さまは写真を撮ることに意識が向き、周囲の人たちのような振る舞いではなかった。一方で、闘病の最中にありながら、寒い中でもその場に足を運び、神事に立ち会っておられた。その姿もまた、見方を変えれば精一杯の参加だったのかもしれませんね。
私たちは誰しも、「感謝したい」「失礼があってはいけない」「正しくあらねば」という思いを抱きます。でも同時に、思うように整えられない自分、他人の振る舞いが気になってしまう自分もいます。そうならざるを得ない弱さや揺らぎは、人間に共通する悩みなのだと思います。
「罰があたるのでは」という不安も、信心深さや誠実さの裏返しなのでしょう。ただ、感謝の気持ちそのものは、姿勢や作法が完璧でなくても、決して無になるものではありません。治療がうまくいっていることを「ありがたい」と感じ、その思いを携えてその場に居られたこと自体が、すでに大切な一歩だったのではないでしょうか。
もしよろしければ、「ちゃんとできたかどうか」よりも、「今日ここまで一緒に来られた」「感謝したいと願っている自分がいる」――その事実を、そっと認めてみてください。人は不完全なままで、なお願い、祈り、支えられて生きていく存在なのだと思います。
どうか一人で抱え込まず、またいつでもお話しください。
ご主人さまの治療の歩みと、あなたの大切な願いが、これからも静かに支えられていきますように。
質問者からのお礼
藤堂尚夫ご住職さま、
有難うございます。
ご住職さまが書いて下さった様に、「ありがたい」を 感じ希望を持って その場に居られました。先ほども一緒に豆まきをしました。
ハスノハのご住職さま、家族、友達、そしていつもお参りするご神仏に支えられ
生きています。人は不完全な存在…本当にその通りだと思いました。生まれてから死ぬまで 次々悩み、又祈りと
忙しく…本当に不完全です。
今は、少し休息期間を戴いているので、むやみに未来を憂いず休息期間を楽しみたいと思います。有難うございました。


