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代理でお参りはOK?

回答数回答 1
有り難し有り難し 8

最初にストレスを吐き出させてください。ここのところ様々なトラブルやストレスが見に降りかかっていて気が滅入っています。
例えばSNSの友人関係の破断。
(仲良くしていた方にブロックされた。その人の選択だから尊重したいが、どこか寂しさ・執着が拭えない。仲直りできないじゃ期待してしまう)
転職活動が上手くいかない。
(派遣の選考ですら中々通らない。正社員の面接でも面接官に今までの経歴を否定されるような面接をされた。)
結婚した姉が、家を離れたのにも関わらず両親に心労をかけるような言動を繰り返す。
などなど色々が身に降りかかって、心身共に疲れています。

本題となりますが、自身が諸事情(心身不調や物理的距離等)で寺社仏閣への参拝が難しい場合、友人などに頼んでもいいのでしょうか。
古くは、おかげ犬など伝統もありますので、友人になんらかのお礼も渡す方向でいこうと思ってはいます。
専門家の方から見て、代理参拝はどう思われますか?その良いところ懸念すべきこと
配慮すべきこと等々見解をお聞きしてみたいと思い質問させていただきました。

2023年6月15日 23:51

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

内なる神仏参拝を通じて心が本当に楽、安心できるように。

日々のストレスお疲れ様です。
ストレスはストレスで諸行無常🌊✨
今日ストレスがあるとしてもそれは「新た(❝ARATA❞)」なるもの。
ああ、今日「も」とか「またか」と観てはいけない。
昨日のハードな一日はもうありません。二日前三日前の体験は一生できませんので、今は今。今日は今日。たとえストレスであっても全自動更新で残り物がなく、真新しいネオ体験なのだと観じてライトにスルーしましょう。
人生とは今を上手に生き、今という時を最高のクオリティにすることが大事だからです。
人生には3人のお友達がおられます。この3人のお友達と上手に付き合うことです。
スギタカ子(過ぎた過去)さんはもうお帰りになりました。いい勉強になりました。
アシタクルヨ(明日来るよ)さんもまだお見えになりません。楽しみにしましょう。
イマノコト子(今のこと)さんは今そこにおられるのですから、今ちゃんとお迎えしてオモテナシ対応してさしあげてください。今の事実の既読スルー(見逃し)は寂しいです。SNSのお友達もお互い仮アカウント上ネット上のお付き合い。現実を相手にしましょう。
転職活動は一種の婚活と思いましょう。相手にも相手の都合があり、こちらにもこちらの都合。安定した人生のためにも安売り妥協はNG。
おねーちゃんとご両親とはおねーちゃんとご両親とのこと。あなたは公的なレフェリー・行司としての立場でたとえリング上に同居するにしても参戦しないでお互いがフェアでより良い精神に向かうように中立の立場で公式ガイド・公的教導しましょう。
本題の代理参拝ですが、そもそもお参り、参拝ということは、あなたが神様仏様と関わること。あなたの内なる神仏の作用に目覚めることも大事です。場所を問わず、たとえ家の中でも自らの内なる神仏の作用を観じつつ拝めば重い体を無理に引きずってまでもお参りしなければならないというワケでもありません。階段数の多い神社などはご病気やご年配の方では毎日の参拝は大変です。
代理がダメというワケではありません。月は月を見る人の数だけその形があり、照らされる角度も変わるもの。大切なのはどんな角度の月であっても今日は今日のお月さまを拝んで心癒されるように、あなたが今日は今日の苦しい心が今日癒され、今日救いに向かうよう自ら心を豊かな心へと向かわせるよう働きかけてあげることです。
人生も心にも代理はないのですから✨

2023年6月16日 4:48
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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