輪廻転生
仏教で最も重要なファクターである「輪廻転生」が世界で信じられて、日本で否定されているのは残念です。
太平洋戦争以前には日本も信じられていたことは、楠木正成の「七生報国」で明らかです。
戦後アメリカ文化が流入して、仏教界で輪廻転生が否定されたのです。
阿含経につぎのような話があります。
城邑(南伝 相応部経典 12.65. 城邑)
前略
その時、世尊はかように仰せられた。
比丘たちよ、わたしは、まだ正覚をえなかった修行者であったころ、このように考えた。(この世間はまったく苦の中に陥っている。生まれては老い衰え、死してはまた再生する。しかもわたしどもは、この老いと死の苦しみを出離するすべを知らない。
まったく、どうしたならばこの老いと死の苦しみを出離することを知ることができようか)と。
後略
ここで釈尊は何のために修行を始めたかが明確です。
即ち「生まれては老い衰え、死してはまた再生する。しかもわたしどもは、この老いと死の苦しみを出離するすべを知らない」
「死してはまた再生する」ので次の「生まれては老い衰え」を繰り返すことになります。
即ち「輪廻転生」です。
悟りを得て如来となり、その解決方法を「涅槃(無明を滅すること)」と言う形で解決したのです。
「輪廻転生」が否定されては仏教そのものが不要になるのです。
お坊さんからの回答 1件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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ご尤もです。
愚僧も輪廻転生を前提としております。善因善果、悪因悪果ですね。
今世にこれが報われざるとも、来世に結実すべし。
と信じているので自己規律できるわけです。
輪廻転生は、『命が続いていく』という希望の思想だと思います。
この教えを説いたのが、お釈迦さまです。
釈迦は、
• 人は行い(業)によって次の生を受ける。
• 良い行いは良い世界へ
• 悪い行いは苦しい世界へ
• 修行により輪廻から
解脱することもできる。
つまり輪廻転生は、
「どう生きるかで未来が変わる」という道徳の法則でもあるように思います。
① 人生は一度きりではない
失敗しても終わりではない。努力も善行も無駄にならない。来世へ続きます。
② 不公平に見える人生にも理由があると達観できます。
生まれ、才能、環境の違いは過去からの因縁とも考えられることから、
③ 善い行いは必ず自分に返ってくる
「因果応報」ですね。
日本人と輪廻転生
実は日本人の感覚には、輪廻転生はとても自然に根付いています。
ご先祖様になる、また生まれ変わって会おう、子供は生まれ変わり 縁がある人と
また出会う
こうした考え方は、仏教の輪廻思想が生活に溶け込んでいませんか?
最後に輪廻転生の教えは本来はとても前向きな教えだと思います。
「人生は一度では終わらない。だからこそ、今を大切に生きる」
再度の真摯なお言葉、
しかと受け止めさせていただきました。
「仏教の目的は、輪廻転生からの解脱のみ」
その断崖に立つような潔いお覚悟、まさに「百尺竿頭」に及ぶ峻烈な求道心を感じ、背筋が伸びる思いです。
仰る通り、この世は限られた資源を奪い合い、己を立てるために他を排する「穢土」の相を呈しております。そこから目を逸らさず、現世にも来世にも安住を求めぬそのお心こそが、解脱へ向かう第一歩であることは間違いございません。
「私」が解脱を求めて足掻くとき、そこにはまだ「私」という執着が潜んでいることがございます。
「今日の行いが、来世の自分をつくる」という言葉を一段進めれば、それは「自分」という枠を溶かし、この穢土にあって穢土に染まらず、ただ「今、なすべき行」に没入すること。その無我の瞬間にこそ、輪廻の鎖は断ち切られるのではないでしょうか。
心空、法空、一念決定断、向然無事
質問者からのお礼
三浦康昭 御住職様 ご指導を有難うございます。
「今日の行いが、来世の自分をつくる。」は仰るとおりですね。
しかし現世も来世も老病死の苦しみは避けることが出来ません。
その対策のために「厭離穢土欣求浄土」があると思います。
この世は「穢土」である認識が重要です。
生きるために限りある資源を奪い合うのです。
今世界は欲のぶつかり合いに大変なことになっています。
六道輪廻の天界(浄土)を求めて人間界に戻らないように努力しなければなりません。
仏教の目的は「輪廻転生からの解脱」のみで、その他には何もないのではないでしょうか?
釈迦に説法で失礼しました。
三浦康昭 御住職様 再度のご指導有難うございます。
「仏教の目的は、輪廻転生からの解脱のみ」
いえ、私の個人的な意志はどこにもありません。ただ経文の中身を「こうではないか」と勝手に解釈し ているだけです。
上記は釈尊が修行者の時の「輪廻転生」だけの悩みを嘆いておりましたので、悟りによりこれを解決したのですから、そのほかには何もないと推定したにすぎません。
「厭離穢土欣求浄土」も徳川家康の旗印に書かれた文字を例にあげただけです。
多分浄土宗の究極の結論だと思っています。
「厭離」という言葉は「縁起」の「厭離ー離貪ー解脱」として「解脱」の二歩手前です。
「厭離」は意識すれば可能ですが「離貪」は実践が滅茶苦茶難しいです。誰もがここで挫折するでしょう。
浄土宗では「今生度せずんば、いずれの生か度せん」と言う言葉がありますが、まさに「解脱へ」を示しています。「度す」は多分般若心経の「度一切苦厄」の「度」でしょう。


