カルマ、業についての解釈
カルマについてAIなどに聞いてみたのですが、厳密にやったことが返ってくるということでは無いと言われました。
例えば、スペイン風邪や結核が流行っていたころは、本人に悪意はないにも関わらず広まってしまう状態だったと思います。
でも、仮に厳密にやったことが返ってくるなら、もし自分が誰かにうつしてしまったら、他人からうつされても仕方ないということになると思います。
しかし、カルマには悪意や意図が関わってくるとAIに言われました。
逆にどうしようもないことはどうしようもないと...。
自分自身も複雑で他人に迷惑をかけている身なので、とても気になります、教えていただけないでしょうか。
お坊さんからの回答 4件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
カルマの分かれ道。
はじめまして。浩文(こうぶん)と申します。
カルマについてどのように解釈されたか
よく見えないのですが、
基本的に、本人の意志や動機が伴ってなした行いに限って言えば
その意志が良いものであれば自ずと行いも良いものになると
考えていいと思うんですね。
逆に悪気があってなした行いは、それがたとえ世の中人のためになるといって周りから称賛されたとしても、やはり悪い行いとして次に良くないカルマを生むわけです。
カルマの考え方は
意図せず起きた出来事に関して適用していいかどうかは
注意が必要だと思います。
あくまでご本人の心の動きと密接して
日々の行いの原因と結果を見極めるためのもので
やったことが自分に返ってくる、という法則のような話では必ずしもないと思います。
もし法則のようなものだとしたら
よかれと思ってやったことは全部良い結果を生むはずです。
しかしそうではないわけです。
それでいえば、風邪をうつしたからには、他人にうつされても仕方ないと思う場合。
すでにこの時点でろっとさんがどのような意図を持つかが、カルマの分かれ道なのだと思います。
「他人にうつされても仕方ない」という話。
仮にろっとさんがここから
「本人の努力も必要だが風邪はすべてを防げるわけではない。」
と考えたとしましょう。
次に
→①・お互いをいたわれるような気持ちを持とう。
→②・次自分が他人にうつしてしまってもかまわない。
心が①に向かうか②に向かうかで
起きてくる結果が変わってくる。ストーリー展開が変わってくるということが言えましょう。
そういう意味で、ろっとさんが質問されていることも含めて
現在進行形でカルマが揺れ動いているともいえるわけでして
この回答のあと、どんなふうに感じたかで
次に起こる行いにおのずと影響が出ているのだと思います。
カルマについては、それだけは言えると思います。
ご参考いただければ幸いです。
南無釈迦牟尼仏 合掌
【追記】
ご返事ありがとうございます。
意図や意志は、
周りの環境や境遇、ご自身の理解によって左右されやすいものですから、
良くない意図が出たからといって
責めずにいて頂きたいです。
ご自分の迷惑もまたどうにか良い縁として向かえる道を見つけたいですよね。
世界は大きくて小さな水槽である
われわれは、世界、地球という名の大きくて小さな水槽に住んでいる一匹の魚介類であるとします。私やあなたがタコ🐙でスミを吐けば水が濁ります。
お互いに何らかの形でかかわりあっている以上、この現実との直接的な関わりはかわしようがありません。何かをすれば何かが起こる。何かをすればその何かという働きによって何かが変わる。
現実の世界で隣のオッサンが雑草嫌いで、除草剤をまけば、水、空気、土、環境そのものを汚すことになるわけです。
風向きによっては除草剤、グリホサート、枯葉剤が舞い、周りの人たちもオッサンも同時に影響を受け、身を害するものです。
その除草剤を撒いたオッサンの影響は、その範囲内で必ず、関係性が継続するものです。
一般論の「なせば成る」という意味での「なせば成る」ではなく「なせば(そう)なる」「それをすればそのようになる」という必然の道理が業であり、カルマです。
別に変な意味も何もついていません。当然のことであり、当たり前の原因と結果です。
その原因と結果の間に「働きかけ」が加われば縁というだけです。
この世の主体は人の思い込みや眺めではなく、事実の側。
何もしなければ何もしないという業が行われる。
アクションや努力をしなかったものはしなかったという業によって、結果もそのようになるのです。
行動をしても、しなくても。
しなかったとしても「なせばそうなる」のです。
やったことが返ってくるというのは解釈の一つで、実際にやればそうなる、返ってくるケースもあります。人を殺してもケロッとしていられる人はいません。人の道に反することをすれば、必ずその通りのことが精神にも現れるものです。
よって、因果応報とは、この自分が働きをなして、その働きが生ずれば、その働きによって、必ずその影響を受けるということです。そのフィールド内で何らかの作用が生まれて、その影響力が及ぶようになるということです。
これを読めば、読んだ人も今までの世間の因果論、カルマ、業論というものを、それまでAという風に考えていたけれども、実はBというものだったと知る人もいるでしょう。その人の中で理解、影響が及べば、自分の個人的な思い込みではなく、本来のカルマ、業、因果論、因果応報の真意を知るようになる…という、真新しいカルマともなるのです。カルマとは業、作用、働き、はたらきによるあらわれのことです。
「ありがとう」の一言で迷惑に感じなくなるものですよ。
迷惑かけたかなと思ったら「ありがとう」と伝えましょうね。
それだけで十分ですからね。
なお、AIの情報は必ずしも正しくないので参考程度にね。
見たい夢を見られない
睡眠中の夢の内容は、脳内のデータが元になっています。
知っていることしか夢には出てこない。
また、好きなアイドルのことを毎日考えていたら、アイドルが夢に出る可能性があるかもしれません。
かと言って、確実に見たいアイドルの夢を見られるわけではない。
カルマ、功徳(善のカルマ)や罪業(悪のカルマ)もそのように、単純に結果が出るわけではありませんが、しかし功徳を積んでおく方が善い結果が出る可能性が高まるかも知れません。
功徳を積んでおけば、来世で天や人間に生まれたり浄土に生まれたり、悟り(成仏)が早くなったりする可能性は高まるでしょう。
だけど、聖人君子でも「魔がさす」こともある。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の主人公は、悪人だけど蜘蛛を助けた。いざという時のその瞬間の判断や言動に、膨大な過去のカルマのルーレットが関わっているのかもしれません。
質問者からのお礼
ご回答、ありがとうございます。
意図的に迷惑を起こすつもりはなく、どちらかと言えば①なのですが、極論を言ってしまえば自分が居なくなってしまった方が、他人に迷惑もかけず自分も楽なのではという所にいるときもあります。
ハンディキャップのようなものも感じており、不条理を感じることもあります。
とにかく病気などは自分にはほぼどうしようもないので、自分にできる範囲で良いと思うカルマを積んでみようと思います。
ありがとうございます。
まだいらっしゃってくださるお坊さんいますかね?
自分は迷惑を意図的でなくかけてしまったとしても、すべてを因果応報的に見れば、その次に相手が迷惑を意図的でなくかけるつもりがなかったとしても、こちらが相手から迷惑を受けても仕方ないという風になると思います。
自分もそうだったから、意図的でない迷惑を相手からかけられても仕方ないという図式です。
正直に言ってしまうと、自分は迷惑をかけられると嫌だと思ってしまいますし、そこにも苦しみを感じます(かけられてみないと分からないというのもありますが)。
でも、厳密にみれば、そもそも仮に迷惑をかけてしまうとしてもハンディキャップを持っている時点で、世界単位で平等とか因果応報とは言えないと思うのですが、どう思いますか?
ここのどうしようもない、どうしようもなかったという苦しみは仏教的に?どこまで背負うべきですか?



毎週日曜午後三時から坐禅法話会 費用:任意にて500円~の志納
お悩み相談 0429415940(無料)お気持ちで浄財志納歓迎
月火水木金土日 8:00~21:00