阿含経(上座部仏教のお経)の読誦についての質問
日本の主要な宗派は大乗仏教ですが、
上座部仏教のお経つまり阿含経を読誦することもあるのでしょうか?
例えば、阿含経の法句経の七仏通誡偈は天台宗や禅宗などで
読誦されたりすることはあるようですけど。
誕生偈も読誦したりする宗派・寺があると聞いたことあったりしたので。
もし、七仏通誡偈の他の上座部仏教の阿含経を読誦することもあるのでしたら、そのお経は何でしょうか?
ご教示お願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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認識の差異
現場レベルの仏教では経典の分類は意識されていません。むしろ現代では分類やランク付け自体が過去の発想とされています。ゆえにこれは上座部仏教の経典、あれは大乗仏教の経典という認識がお坊さんにありません。法句経は法句経です。
よく法華経は日蓮宗のお経という認識が一般に広まっていますが、そういうものではありませんよね。浄土宗・浄土真宗以外では禅宗でも密教でも読誦しますね。それと同じです。宗派が先にあって、宗派がお経を作ったのではなく、先に経典がまとめられ、どの経典を重視するかで宗派が別れたのですから、特定の宗派のお経というものは無くはないのですが、基本的にはそういうものではありません。
七仏通戒偈につきましても、七仏通戒偈というお唱え言(偈文、ゲモン)を読んでいるという認識であり、法句経を読経しているという感覚ではありません。むしろ四分律や増一阿含経のような他の古い三蔵や、あるいは正法眼蔵や大智度論のような明らかに大乗仏教から生まれたテキスト、さらには大般涅槃経にも七仏通戒偈は収録されていますので、必ずしも法句経の七仏通戒偈と言い切れるわけではありません。法句経推しの人々がそう言っているだけだと思われます。
漢訳長阿含経は過去七仏から始まり、お釈迦さまの時代になるとまず最初にお釈迦さまの生涯ではなく、お釈迦さまが阿闍世王に説いた『強国の条件』が紹介されます。
これは神話の構成に合わせた上で、為政者の関心を惹く話題から始めているのではないかと思います。国外への輸出を意識したのでしょう。そう考えると必ずしも上座部仏教が上座部仏教のために阿含経を編纂したわけではないということがイメージしやすいでしょう。
さて、私は禅宗の僧侶ですが、大学のゼミで仏教漢文を読む訓練のために阿含経典群の記事をよく読んでいました。hasunohaにおいても仏教仏教した単語を使いたくない時は法句経を好んで引用します。浄土宗の聖章さまもよく法句経の本をご紹介なさっていますね。
しかし、『読経』という形で法句経を読むことはありません。これは声に出してリズムよく読む読誦経典と、本を精読するように読む看経(かんぎん)経典の違いによるものです。上座部だからとか、大乗だからということではなく、法句経は読誦のためのお経ではないという認識なのです。
ゆえに法句経は読みますが、読誦するわけではありません。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうごさいます。
阿含経(上座部仏教のお経)の読誦についての質問をしたのは、
純粋にただ阿含経のお経を読誦するのか否かを知りたく考えたからです。
ですから、私も上座部仏教の経群を阿含経を便宜上いっただけなんです。
誕生偈を灌仏会に読誦したり、遊行経を涅槃会に読誦したりなど、
日本の宗派でも有ると少し聞いたことありましたので。
七仏通戒偈は大乗仏教のお経にも引用されてますが、
法句経(ダンマパダ)はスッタニパータ(経集)の第4章・第5章とともに
最古のお経と現在の研究結果が出ていますし、ゴータマ・シッダールタつまり釈迦牟尼のいた時代の直後に編纂されたお経と目されていますので、七仏通戒偈は法句経からの引用と考えてもよいとも私は考えてはいたんですが、誤解していたと反省しております。
個人的に法句経やスッタニパータは釈迦牟尼の直接の教えがあると考えておりますので、
よく読誦は無理ですが和訳を読んだりしております。
それらの漢訳はパーリ語版の原典お経とほぼ完全に対応し忠実に訳されていると聞いております。
ダンマパダは法句経として漢訳仏典として日本に早くから入ってきており、浄土宗の法然上人も何度も読んで重視していたお経とされてはいますが、
スッタニパータはその最古層の編纂の第4章の漢訳の義足経などが
近代に入るまで日本に入ってこずに重視されてなかったことが残念に個人的に思っております.