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法事の意味とこの価値観は間違えていないか回答受付中

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はじめに、一介の高校生であり、仏教の作法や深い教えに疎い身でありながら、不躾な質問をいたしますことをお許しください。現在17歳の受験生である私は、本日執り行われた祖父母の一回忌法要を欠席いたしました。勝負の夏休みに入ったばかりで勉強に集中したいという理由もありますが、それ以上に、以前参列した葬儀の際に抱いた違和感と、私自身の法事に対する価値観からこの決断に至りました。
当時の葬儀・火葬を終えた後の集まりで、私はある空気を感じ取りました。それは学校の授業中に感じる「自分に当てないでくれ」「早く終わってほしい」というものに酷似しており、言い換えるなら「親戚同士関わらずに早く帰りたい」という消極的な態度に見えたのです。
本来、法事とは故人を偲んで供養し、遺された親族が集うことで互いの幸せを願い、親睦を深める場であると理解しています。しかし実際の場では、親戚一同が気まずそうに向かい合い、私の家族も主体的に関わろうとせず形骸化した時間が過ぎるばかりでした。さらに困惑したのは、二回りも年上の親戚のおじさんが、ほぼ初対面の子供である私たちにお茶を注いでくださった光景です。本来なら若輩の私たちが動くべき場面ですが、親からの指導もなく、大人の親戚に無用な気を遣わせてしまったことに、申し訳なさとある種の惨めさを覚えました。
私は法事や供養そのものを否定しているわけではありません。宗教を信じる心は素晴らしいものだと思いますし、欠席した今日は、自宅の遺影の前で手を合わせ、自分なりの供養を行うつもりです。私が疑問視しているのは、実質の伴わない、形式だけの上辺の「会合」という名の馴れ合いです。
関係性が薄く、名前と顔も一致しない親戚との形式的な集まりに、限られた時間を受験に投資すべき現在の私が参列することは、合理的ではないと判断しました。将来的に親戚の助けが必要になる場面が想像できないことも、欠席を後押しした理由です。こうした行事は、時間に余裕がある人々で行うべきではないか、というのが私の現在の価値観です。
ただ、この決断の根底には、親に対する日頃の反発心が混ざっている気がして100%純粋な気持ちなのか、自分でもまだ整理がついていない部分があります。
心から供養する意志があるからこそ、形だけの会合には参加せず、やるべきことに集中するという私のこの考えは、仏職の方から見て間違っているでしょうか。

2026年7月19日 10:24
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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

普段疎遠だからこそ

普段疎遠な親戚と会えることもまた、冠婚葬祭の醍醐味だと思います。
例えば親戚の中にこのようなすごい人がいるとか、祖父母が若いときにこのような活躍をした、先祖は有名な武将の家臣だったなど、何気ない会話の中にも一族の誇りや親しみにつながる会話があります。
また、供養とはおもてなしの意味であり、集まった親戚やお坊さんに食事等を出しておもてなしすることも善行為なのです。
亡くなった人をお線香やお供え物でおもてなしするだけでなく、生きている人々をおもてなしする供養や、プレゼント(手土産)を配る布施も善行為となります。
お盆も、日本では死者を迎えるイメージが強いですが、経典では、お坊さんを供養(おもてなし)した功徳によって死者が救われるストーリーなので、生きている人々をおもてなしすることが死者への供養につながるのです。
たしかに、受験生だから勉強に集中するということにも一理あります。
一方で、普段疎遠な人と会って話をすることは、社会勉強になると思います。
ということで、結局はメリットとデメリットを比較してそれぞれに判断すれば良いのですが、法事で集まることは意味のないことではないと思います。
お坊さんから「あなたは間違っていません」と太鼓判を押して欲しいのかもしれませんが、世の中はそれほど単純ではなきく、メリットとデメリットが混雑しているのです。
少なくともお坊さんとしては、忘れられがちな法事のメリットを宣伝しておきますね。

2026年7月19日 13:04
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

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