死後が「無」だと思うと怖いです
現在大学生なのですが、目の前のことよりもずっと先の「死」について毎日考えてしまいます。
私は小中学生の頃は「死んだら地獄に行って酷い目にあって家族や愛犬と会えないのかな」といったような、地獄への恐怖で死を恐れていたのですが、今は「どうせ死後の世界なんて生きてる人が生み出した妄想で、実際は意識がなくなってそのまま永遠に起きることはないんだろうな」と考えるようになって、自我の消失が怖くて仕方なくて寝ることすら怖くなってしまいました。
家族も親友もいて大好きな配信者もいて好きな漫画やゲームもあって、そんな毎日が楽しすぎてそれが失われて何も感じ取れなくなってしまうこと、私が観測できない世界でまだまだ面白いことが起こっていくことがすごく嫌なんです。
それとなく相談したりネットで意見を見てみても、「別に無でもいいじゃん」「生まれた前に戻るだけ」「今が楽しいからこそ無駄に長生きしてしんどい目に遭いたくないって人もいるんだし」というような意見が多く、そういう問題じゃない!とイライラしてしまったりします。
宗教を信じられたらきっと楽だろうなぁと思いつつ妙に現実主義者な自分がそれを許してくれず、解決策もなくただ怯える毎日です。
科学者でも哲学者でもないただの一般人がこんなこと考えたって無駄だとはわかっているのですが、怖くて怖くて仕方ないです。
お坊さんからの回答 6件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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先に生きてくださった方々の姿から、教えられた「安心」
それでも、一日一日 老いて、死に向かっているのが、この世の命でしょうね。誰もが、避けられません。
あなたが恐れを感じているのは、まわりの環境や手にしているものを失いたくない執着でもあり、自分の存在や意識も消えてしまうと考える虚しさでしょう。
現実主義者で、答えを出して実感していかないと納得できないのだろうと思います。だから人生のテーマになるのですし、そうやって人間は信仰心を生んできたのも確かなこと。
これから、あなたは、もっと多くの人や考えに出会い、その中で心を燃やしながら苦悩することでしょう。そして気づくのです。どうにもならないことが、この世だと。真実の世界は、超越した仏様の導きの中にあるのではないかと。
私も、あなたと同じ、この世の「大事なもの」に執着しています。離れたくないし、その日が来たら苦しむでしょう。その日のことを考えると怖い。
ただね、その「大事なもの」から教わったことがあります。先に生きてくださった方々の姿です。安心をいただき、喜びの中で、老いて病んで命を終えていかれた生き方を、私は見てきたのです。この「安心」とは、この世の先に生きていける「いのち」を願われている安心です。死んで自我が消失するのではなく、仏様の世界に生まれていくという事実。まさに信仰心が、恐怖を安心にしていく。仏様の願いや声が届く時、避けられない死も、安心になっていくのですよ。
私は、大事な人から教えられた「安心」を、求めて生きています。
あなたも、大事なものから、見えてくるといいですね。見えたら真実になっていきますよ。
世界83億人、死なない人は一人もいません
毎日が楽しいからこそ、それが失われる「無」への恐怖で眠れなくなるお気持ち、とてもよく分かります。死を恐れるのは生命の防衛本能であり、怖くない人はいません。仏教でも「生老病死」の四苦として、死は最も逃れがたい苦しみと説かれています。
現実主義者ゆえに宗教を妄信できないという葛藤も共感します。実は私も工学が専門の現実主義者です。だからこそ言えるのですが、どんなに科学が発展しても「死後の世界」の有無を証明することはできません。分からないことを無理に頭で解決しようとすると、かつての「地獄への恐怖」のように、自分の心が新たな恐怖の幻影を生み出してしまいます。
世界83億人、死なない人は一人もいません。私ども浄土真宗では「往生即成仏」といい、命を終えると同時に煩悩や苦しみのない「お浄土」に生まれ仏になると考えます。これは今すぐ無理に信じ込むものではなく、「そういう教えがあるのだな」と心の隅に置いておくだけで構いません。
家族や親友、推しの配信者、好きなゲームに囲まれた今の生活を「楽しすぎる」と感じられるのは、本当に「有難い(有ることが難しい)」ことであり、素晴らしいことです。まだ来ない「死」の闇を見つめ続けるのではなく、その視線をいま目の前にある「光」(大好きな人たちや楽しい時間)へと向けてみてください。せっかく恵まれた尊い人生を、今この瞬間、存分に味わって生きていただきたいと願っております。
拝
縁起寺 釋聴法
原理的に分かり得ないものは分からないままにしておく
仏の教えも、ある面では非常に現実主義です。原理的に分からないものをあれこれ想像することを、妄想として強くいましめています。
>そんな毎日が楽しすぎてそれが失われて何も感じ取れなくなってしまうこと、
楽しいという感覚は、対象から直接受ける情報に内在するものではなく、自分の中で反芻、解釈された結果として、あくまでも「自分の中」で起るものです。どちらかといえば、情報の受け取りよりも反芻、解釈の過程に多くを負っています。ですから、対象からの情報を受け取れなくなった時点で、本当に楽しいという感覚が失われるかどうかは分かりません。
たとえば、こだまや残響、残像と同じような仕組みで、一定期間残ると考えることもできます。あるいは、上映中にストップした映画の一コマがスクリーンにいつまでも映り続けるように、永遠に残る場合も考えることができるかもしれません。
人間を含めた生命は、五蘊が仮に和合して存在していますが、その和合が解きほぐれていく過程でどのような変化が生じるかは、そうなっていない私たちには確かめることはできません。どこまで考えても想像、妄想の域をでません。
>私が観測できない世界でまだまだ面白いことが起こっていくこと
上記と同じ理由で、自分が観測できない世界では「面白いこと」も「面白くないこと」も「どちらでもないこと」も起りません。自分の中で反芻、解釈の過程が成り立たなければ、現象はただ現象しているだけで、面白くも、面白くなくも、どちらでもなくもありません。
いずれにしても、確かめ得ないことを「こうなるに違いない」と思い込むことは、単に妄想であって、自分自身の思考を不必要に縛り付けるものです。原理的に分かり得ないものは分からないままにしておくことも必要かと思われます。
徹底的な現実主義者に
肉体の細胞は慎重代謝で入れ替わり、心(思考や感情)は瞬間瞬間に浮かんで消えて変化します。
ですから、昨日の「自分」と今日の「自分」は実は別人です。
ただ、記憶データや戸籍上の名前を相続しているから同一人物だと錯覚しているだけです。
当然、「死ぬ」ときの自分と今の自分も別人なのです。
例えるなら、通っている高校が5年後に廃校になると決まっているが、そのときは自分は卒業しているはずだから特に影響ない、という感じ。
本当の現実主義者は、過去や未来や自分や他人に関する妄想雑念を膨らませず、ただ「今・ここ」の1秒間に、できることをできる範囲でやるだけなのです。
予防接種で、注射を撃たれる前は痛くない。注射を撃たれる前から「痛い」と泣くのは現実的ではないのです。
なお、浄土宗では、南無阿弥陀仏と念仏を称(とな)えれば臨終時に極楽浄土から阿弥陀仏が迎えに来てくれると説きます。
5年後に廃校になる高校は、実は極楽大学附属高校であり、後輩達が必ず大学に入れるように約束されているのです。
ですから、「今・ここ」においては「なむあみだぶなむあみだぶ」と念仏するだけで良い。
余計な心配は無用なのです。
なお、念仏するときは、これが臨終最後の念仏かもしれないと思って念仏します。
寝る前に念仏して、睡眠中に死んでも極楽浄土に往生できるから大丈夫だと思って眠るのです。
ということで、未来に関してあれこれ妄想雑念を膨らませない、徹底的な現実主義者になるために、念仏だったり仏教の瞑想だったりをやってみましょう。
合掌
なむあみだぶなむあみだぶ
なむあみだぶなむあみだぶ
礼拝
みんなあなたと同じですよ。
科学者も哲学者も宗教者もあなたと同じで考えても無駄だし解決策なんて持ってないのですよ。
それでも毎日生活しないといけない、仕事しないといけない、生きていかないといけない。
それぞれが自分なりの仮初の解釈を持って懸命に生きているのです。
あなたもあなたなりの考えを持ったらいい。
「無」になるならきっと寂しさも苦しさも無く夢を見ずに熟睡している状態が近いのかな?と考えてみたりとか。
死ぬことを永眠するともいいますからね。
熟睡しているのなら心地よいかもですね。
私は今どき流行の異世界転生したらいいなって思ってます。
スライムに転生するのはちょっと遠慮したいですが。
現実をみない愚かな現実主義者が王道の宗教を愚かだと思いあがる
ホンモノの宗教を知らない人は世間でよくありがちな「q( ˘ω˘ )p 宗教とは所詮こんなもんだろ。こういう程度のものだ。(嘲笑)」と勝手なイメージで宗教というものを小ばかにしている。。
それは見ているものがニセ宗教団体か本人の思い込みなのでしょう。
食べ物だって本家とニセモノがある。
宗教に関わる奴がみんなアタオカだというのであれば、このhasunohaを始め、僧侶、仏教業界はみんな、子供だましのウソや妄想を一生懸命守っている頭のおかしい奴のの集まりということになる。
そのアタマのおかしい人間が遡れば2500年もの昔からずっと世の人の悩みを助け、人間性を高める活動をしてきたのかい?
もし、仏教がそこら辺のチープな子供だましな宗教と同じだったら、私はとっくに仏教業界から離脱して、仏教なんぞはこんなもんだぞ、と大きな声をあげていたでしょう。
人間の妄想とは自分の知らない分野に関して、自分の思い込みで勝手にこうだ、こうにちがいない、と思い込むものなのですよ。
映画だってそうでしょう。
CMや予告で「きっとこういうものだろう」という思い込みが先に走る。
ところが上映されてみるとそこには別モノが映し出される。今まで映し出されていたものは何か?全部自分の頭で考えた偽物。現実とまるで異なる「偽りの妄想」だ。💀
ハッキリ言いましょう。
あなたは現実主義者だと言っておられますが?違う。
あなたではない人の話で説明しましょう。
❝実際の現実や人間の世界を知らない愚かな自称現実主義者❞は、自分が妄想越しに世界をみていることを知らない。
本当の宗教者こそがむしろ現実主義者なのである。
だから、生をよく見ている。眺めている。
死のこともよく見ている。眺めている。
自称現実主義者と名乗る人がもし死を恐れ、苦しむならば?その人は何を見て恐怖しているのか?現実主義者として答えてください。
私ども宗教者も現実主義に基づいた宗教者の視点としてこう言いましょう。
それは現実をみているのではない。人間のエゴベースにご都合主義、スマート至上主義、エゴ、損得勘定、得失の心に支配されていることにすら自覚がないからこそ、死や失う事を恐れる。死を見つめる勇気もなく自分の偏見と妄想で自ら苦しんでいるのである、と。
真の宗教者たちは科学や現実をベースとした上で死を直視して、恐れることがないからです。



午後から夜の時間帯は都合がつきやすいです。
◆こちらから、無理に聞き出すことは致しません。
言いにくいこと、言えない気持ちも大切にします。あなたのお気持ちのままに、ゆっくり待ちながら、その気持ちを大切に受け止めたいと思っています。
◆自死で大切な人を亡くされたり、死別により 死が受け入れられなかったり、心の整理がつかない方へ。30分ずつでも、オンラインで定期的に気持ちに向き合っていきませんか。吐露したり泣ける時間も、大事なグリーフケア 。
◆個別電話ってドキドキして勇気のいることだけれど、声が届くから、聞こえてくるから、ちゃんと繋がっているようで、そばにいるように安心出来ることもあります。
◆ 終末期ターミナルケア、看取り、希死念慮、自死、グリーフケア、トラウマ、PTSD、子育て、産前産後うつ、不妊、傾聴、手話、要約筆記者 としても、サポート
◆出来るだけ希望時間にお応えしたいと思いますが、午前中は毎日 法務があります。
(相談は、hasunohaオンライン相談より受付下さい。お寺へのいきなりの電話相談は受けていません。法務が優先なので)
◆一人で悩まないで。待っていますね(﹡´◡`﹡ )