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死後が「無」だと思うと怖いです回答受付中

まみ女性/20代
回答数回答 2
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現在大学生なのですが、目の前のことよりもずっと先の「死」について毎日考えてしまいます。

私は小中学生の頃は「死んだら地獄に行って酷い目にあって家族や愛犬と会えないのかな」といったような、地獄への恐怖で死を恐れていたのですが、今は「どうせ死後の世界なんて生きてる人が生み出した妄想で、実際は意識がなくなってそのまま永遠に起きることはないんだろうな」と考えるようになって、自我の消失が怖くて仕方なくて寝ることすら怖くなってしまいました。

家族も親友もいて大好きな配信者もいて好きな漫画やゲームもあって、そんな毎日が楽しすぎてそれが失われて何も感じ取れなくなってしまうこと、私が観測できない世界でまだまだ面白いことが起こっていくことがすごく嫌なんです。
それとなく相談したりネットで意見を見てみても、「別に無でもいいじゃん」「生まれた前に戻るだけ」「今が楽しいからこそ無駄に長生きしてしんどい目に遭いたくないって人もいるんだし」というような意見が多く、そういう問題じゃない!とイライラしてしまったりします。

宗教を信じられたらきっと楽だろうなぁと思いつつ妙に現実主義者な自分がそれを許してくれず、解決策もなくただ怯える毎日です。
科学者でも哲学者でもないただの一般人がこんなこと考えたって無駄だとはわかっているのですが、怖くて怖くて仕方ないです。

2026年9月10日 4:15
まみ女性/20代
質問数:
3
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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

世界83億人、死なない人は一人もいません

毎日が楽しいからこそ、それが失われる「無」への恐怖で眠れなくなるお気持ち、とてもよく分かります。死を恐れるのは生命の防衛本能であり、怖くない人はいません。仏教でも「生老病死」の四苦として、死は最も逃れがたい苦しみと説かれています。

現実主義者ゆえに宗教を妄信できないという葛藤も共感します。実は私も工学が専門の現実主義者です。だからこそ言えるのですが、どんなに科学が発展しても「死後の世界」の有無を証明することはできません。分からないことを無理に頭で解決しようとすると、かつての「地獄への恐怖」のように、自分の心が新たな恐怖の幻影を生み出してしまいます。

世界83億人、死なない人は一人もいません。私ども浄土真宗では「往生即成仏」といい、命を終えると同時に煩悩や苦しみのない「お浄土」に生まれ仏になると考えます。これは今すぐ無理に信じ込むものではなく、「そういう教えがあるのだな」と心の隅に置いておくだけで構いません。

家族や親友、推しの配信者、好きなゲームに囲まれた今の生活を「楽しすぎる」と感じられるのは、本当に「有難い(有ることが難しい)」ことであり、素晴らしいことです。まだ来ない「死」の闇を見つめ続けるのではなく、その視線をいま目の前にある「光」(大好きな人たちや楽しい時間)へと向けてみてください。せっかく恵まれた尊い人生を、今この瞬間、存分に味わって生きていただきたいと願っております。


縁起寺 釋聴法

2026年9月10日 6:26
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有り難し
おきもち

真宗木辺派 縁起寺 衆徒 (僧侶/教師) 高等学校教師歴39年,理系,専門は電気工学・情報工学, 現在は真宗木辺派僧侶
お悩みの相談は全般的に対応します。(下記を参照して下さい) 相談時間は、月・火・木・金・土・日曜日は、9:00~17:00です。 (水曜日以外での対応となります) 翌日以降で、他の法務等がなければ、できるだけ迅速に対応させていただきます。 元高等学校教員ですので、将来の進路や転職に関する相談などにも対応いたします。 現在も非常勤講師を行っているため、少々対応にお時間をいただく場合もありますが、できるだけ早く対応できるように調整いたします。 ◆職場や学校での人間関係がうまくいかない ◆ストレスや不安で日々の生活に支障がある ◆無気力で、人生の目標を見出せない ◆卒業後の進路を決める事ができない ◆別れた交際相手の事を忘れる事ができない ◆家庭不和で毎日の生活が辛い ◆家族や大切な人を亡くして心の整理がつかない ◆何事も悪い方向に捉えてしまい、自己嫌悪に陥っている ◆ついつい他人に辛くあたってしまい、後悔を繰り返す ◆毎日充実した日々を送れるように、仏教の勉強がしたい など、上記はこれまでの相談の例(ハスノハ以外を含む)です。

原理的に分かり得ないものは分からないままにしておく

仏の教えも、ある面では非常に現実主義です。原理的に分からないものをあれこれ想像することを、妄想として強くいましめています。

>そんな毎日が楽しすぎてそれが失われて何も感じ取れなくなってしまうこと、

楽しいという感覚は、対象から直接受ける情報に内在するものではなく、自分の中で反芻、解釈された結果として、あくまでも「自分の中」で起るものです。どちらかといえば、情報の受け取りよりも反芻、解釈の過程に多くを負っています。ですから、対象からの情報を受け取れなくなった時点で、本当に楽しいという感覚が失われるかどうかは分かりません。
たとえば、こだまや残響、残像と同じような仕組みで、一定期間残ると考えることもできます。あるいは、上映中にストップした映画の一コマがスクリーンにいつまでも映り続けるように、永遠に残る場合も考えることができるかもしれません。
人間を含めた生命は、五蘊が仮に和合して存在していますが、その和合が解きほぐれていく過程でどのような変化が生じるかは、そうなっていない私たちには確かめることはできません。どこまで考えても想像、妄想の域をでません。

>私が観測できない世界でまだまだ面白いことが起こっていくこと

上記と同じ理由で、自分が観測できない世界では「面白いこと」も「面白くないこと」も「どちらでもないこと」も起りません。自分の中で反芻、解釈の過程が成り立たなければ、現象はただ現象しているだけで、面白くも、面白くなくも、どちらでもなくもありません。

いずれにしても、確かめ得ないことを「こうなるに違いない」と思い込むことは、単に妄想であって、自分自身の思考を不必要に縛り付けるものです。原理的に分かり得ないものは分からないままにしておくことも必要かと思われます。

2026年9月10日 5:50
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有り難し
おきもち

新潟県上越市、龍興山宗恩寺住職。

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