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負担(ストレス)が大きくなってきました

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最近、負担が大きくなりすぎていてとても耐えれる量じゃなくなったので、話させて頂きます。
今一番話したいのは、友達であるUとMの事です。
Uはちょっと障害が入っておりいつも独り言を言います。それが僕の様に事情を知っている者の前だけなら良いのですが、事情を知らない人の前でも言います。
何回注意しても収まりません。今日に関しては注意したら「わかってるって」等と言われ分かって無いくせにと思ってました。
それと、自分にとって不都合な事や嫌な事を言われたら直ぐに無視をします。もう辛いです。
今僕はサークルの部長を務めていてそれで前にメールで『部長交代して』と言ったら『急にどうしたの?』と聞かれたので僕は『別にどうもしてないよ』と送ってその事を今日機会があったので聞いてみました。
すると、急にどうしたの?で事情を聞いてたらしく僕は「なんでとか理由を聞かせてとか言えば良かったやん」と言うと「そんなん面倒臭いやん」と言われてしまって呆れました。
Uに関して今思う事はこれぐらいです。
次にMに関しては、いつも無口なのでとても話してる気がしないです。
Uとは違い冗談が通じるのでその点では楽しいのですが、向こうから話してくれた事は滅多にありません。
極端に言ったら、3か月に1回ぐらいのレベルで向こうからは話しかけてくれません。
もうちょっと大学生らしい学生生活を過ごしたかったのですが、どうやら無理そうです。
そして、今日頭は死にたい気持ちで一杯なので相談させていただきました。
どうか僕に暖かいお言葉を下さい、お願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

涅槃 相手に影響されない生き方

仏教の究極の理想の精神状態は涅槃・ニルバーナといい、相手や情報から影響を受けない心を言います。あなたの場合は友人から影響を受けているというより、友人の反応の仕方が自分の思い通りでないという事に思い通りにならない感を受けていると感じます。
文字通りそれが苦しみ=思い通りにならないということ、なのです。
私であったら、まず、友人との精神的な距離感を保ちます、友人をそれぞれの個性として尊重します。
生まれつきのもので本にもどうしようもないことに関しては要求を持たない。
しゃべるのが苦手な分、あなたの話をよく聞いてくれる友人に対しては、それが彼の性格であるという事で尊重する。
お笑い芸人だって二人ともが、しゃべりまくってたら成立しないように、人間関係にはいいバランス関係があるものです。押し黙っている彼がもっと笑えるような話を提供してあげられるように勤めてみましょう。
さて、涅槃とはどのように成し遂げられるかと言えば、そのことを、そのこととして流し、終わらせればよいのです。相手に対して、自分の要求があったことを自覚し、その要求心を取り下げ、そのままやらせる、さらせる、流し去る、見届ける、一連の流れの中の一過程にツッコミを入れない、という事ですわい。
この話はそんな難しい事を言っていません。
あなたが相手に対する要求心を取りやめて、今起こっていることを、そのままにしておけよ、という事なだけです。
こころって、自分で静かにさせておくこともできるのです。あわただしくさせることだってできます。
目玉や耳や体は、ただ起こった出来事を体感しているだけ。
そこに、こころでオプション的にあれこれ情報を付加しないで過ごしてみましょう。
きっとすべてが❝風❞のように来たって、去りゆくだけであることが理解されると思います。
川はただ流れている。拾い上げなければ、只流れて行く。
風が吹いても去った後はこの身に何も残り物は無い。
雲は雲と呼べる間は時間が限られている。
雲と呼んでいたものはすでにその形を留めてはいない。
あなたの心の中身のことですよ?
もう残ってはいないでしょう。今の目の前を親しく生きる事です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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