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死にたい

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有り難し有り難し 54

自分のバカさ加減を思い出して死にたくなります。今思い出すと情けなくて恥ずかしいです。誰も覚えてないって考えても自分のことが許せなくて仕方がないです。一生あうことない人のことを思い出しては恥ずかしいことしてしまったなって思います。私はバカにされてたんじゃないかネタにされてたんじゃないかと思います。不安を煽ってくるようなことをずっといわれつづけたので不安です。何年も前のことなんで思い出したくないです。どうしたら忘れるでしょう。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分をイジメるのはよくない

私も昔死にたいと思ったものでしたが、その時に心の中でやっていたことを一言で言うと、
「自分で自分をイジメていた」でした。
心で自分の心をストイックに責めるのです。
きっと自分の理想が変な意味で高かったのではないかと思います。
ネガティブな感情、否定的なエネルギー、被害者意識、非難批判の感情がすべて内側に向けられているのです。
考えをやめている時は楽です。
「WHY」何故苦しいのか、とか原因を考える事より、
「HOW」どうすれば、苦しみから解放されるか、ということに精神力を使ってください。
死にたい、というのはあなたの命のSOS信号です。
たとえば、体を痛めつければ、痛い、痛い、と体が「そんなことしたらダメだ」と教えてくれるのが痛みというものです。
どうように、あなたは今心が痛い、心が苦しい。
それは心のSOS信号です。
「それ以上そんな事を考えちゃ体に、心に毒だよ!」とあなたの心が、命が教えてくれているのです。
仏教の救いは体や心を痛めつける事ではありません。
それは流れに逆らうことです。
参考になるかどうかは分かりませんが、良い意味でもっとバカになった方が良いと思います。
イイ子ちゃんでいよう、イイ子ちゃんでいなきゃいけない、親の理想の自分を演じなければいけない、という意識を捨ててしまったらどうでしょうか。
実はそれも自分が「そうしなければいけないんだ」と自分で決めて自分を縛っているのかもしれませんよ?
あなたを縛るものは、他人ではありません。人間の精神は自由です。何ものにも縛られません。何ものも縛ることはできないのです。たとえば戦争で捕虜になったとしても、自分の自由を突き進むことだってできるのです。どうか、自分の思いに負けず、変えられない過去を変えようとすることをやめ、自分の失敗で相手に花を持たせてやった、笑いを取ってやったくらいの気持ちで過去は過去として去らせてしまいましょう。私もそういう苦しい思いから這い上がって今日まで生きてきたのです。ちゃんと救われる道がありますから、一歩ずつで結構です。生きているだけでいいんです。まずは一息、深呼吸をして心をネガティブな方向に向かわせないようにしてください。また、御連絡下さい。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。

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