幸せとはなにか?
大切な人を昔亡くしました。そのあと私は死に対して経験しています。幸せとはなにか?わからずに生きてきました。
結婚することか?子供を産むことか?生きていることか?
私自身が人生を終わりにしたいと思っているため、結婚しませんでした。自分が子供を産むことも望むことも許されません。許せません。寂しいと思いながらいつでも終われるように家族を作らずにいます。
人を大切にすることで生きる価値を見いだしていたのだと思います。今でもそうです。
大切にしたいと思いながら結局は、人は裏切り裏切られ、傷つけ傷つけられる人生なのでしょう。それでも一緒になりたいという人と一緒になるべきか、独りで生きていくか?
恵まれた環境のなか、自分の価値がわかりません。一緒に居たいと思う人はもういない。
でもずっと独りで生きていけるか?
誰でもいいのか?
このような考えで生きている私にどうかアドバイスを下さい。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
どろおおければほとけだいなり!
貴女の経験上から貴女の固定観念が作られています。
死と絶望感です!
死は終わりではありません始まりです。あの世で生きる為に葬儀をします。この世に又生まれる為、今を精一杯苦しんで消えたり付いたりの其々の幸せを頂き懸命に生き死んであの世に帰るのです。
一切皆苦のこの世は全てのものが苦であるとお釈迦さまが説かれて居られます。
幸せは苦の先にあります。
仏教での幸せは悟りからの教えから来るものです。
<泥多佛大>(どろおおければほとけだいなり)の禅語があります。
私達は佛になるのには、煩悩という迷いを持っていてはいけないと一般的には理解しており、これからすると「泥多佛大」は土台ごとひっくりかえしてしまう言葉の様に思われる事でしょう。
しかし、本来佛教では、迷い(苦しみ)が多いということは、当たり前の事とし仏道を成ずるには煩悩、迷い、苦しみを逃げる事無く受け止める事だと考えそれを解くことにより真実の道(仏道)即ち悟りへと導く大事な要因であるとされている。
泥とは煩悩(迷い苦しみ)であり、煩悩、(迷い苦しみ)が多ければそれだけ悟り(佛)も大きいと言う意味である。
苦しむ時はとことん逃げる事無く苦しむ事です。そうすれば貴女の幸せは見えるでしょう!
「幸せ」とは・・
ねね様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
本当に大切な方を亡くされたのですね・・悲観なされておられるお気持ち、誠にお察し申し上げます。
「幸せ」とは、人それぞれでも価値や意味が異なるものであるため、これが「幸せ」ですと決定付けて言えるものではありませんが、「幸せ」は、昼間の星のようなもので、普段は、それが「幸せ」とは、なかなか気付けないものであるかと存じます。
人生、誰でも困難や問題が色々と生じます。その困難や問題が生じたとき(暗闇)にこそ、それぞれの幸せ(星)が何かがわかるようなものであると考えております。
ご心配にもございますように、私たちは独りでは生きていけるような強い存在ではありません。皆、弱い存在です。その弱い者同士が生きていくためには、お互いに、色々と助け合い、支え合い、分かち合っていかないといけません。
恋人、伴侶、友人、子どもであれ、その困難や問題にぶつかった時にこそ、お互いに、助け合い、支え合い、分かち合って、乗り越えていけるような存在であるのかどうかが大切となります。
最初から、生きる意味、価値が無い、幸せも無いとして、恋人、伴侶、友人、子どももいらないというのでは、あまりにも偏った極端な寂しい考え方となるのではないだろうかと誠に危惧致します。
仏教では極端な考え方を避けた「中道」を歩むことが推奨されます。
悲観的、虚無的になられておられるお気持ちも分かりますが、どうぞもう少し柔軟に物事をお考え賜れましたら有り難くには存じます。
善い出逢い、ご縁もまだまだ望めるのではないかと存じます。
善処を祈念申し上げます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
川口様
回答ありがとうございます。いつかはこれでよかったのかと思える日が来るのでしょうか?悶々とした日々のなかでも、小さな幸せを感じながら生きていきたいです。
将来、恥じぬ生き方をしてこれたと思えるようにこれからも迷い悩み苦しみながら、楽しみや喜びを感じられるように生きていきたいです。
山口様
ありがとうございます。
確かにそのように思います。
これから先のことをしっかりと考えていきたいと思います。