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因果応報

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有り難し有り難し 97

小さい頃から 親には 『良いことをすればその分良いことが返ってくる。 悪いことをすればその分悪いことが返ってくる。』と教わりました。
しかし、世の中や自分の周りを見てみれば、ずる賢く、自分の利益だけを考え その為には他人の犠牲など気にしない。そんな人に限って富を得て、成功し出世して良い思いばかりしているような気がします。
生きていく為にはそんな人たちに騙されないように、利用されないようにして生きていかないといけません。
やはり自分もずる賢く常に裏を読みながら、人を疑いながら生きなければならないのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

正々堂々と生きなさい!

善い行いには善い報い、悪い行いには悪い報い、善因善果、悪因悪果ですよ。輪廻転生、魂は不滅で生まれ変わり死に変わりして行くというのが、仏様の教えです。いいことも悪いこともある世の中だけど、正々堂々精一杯生きていこう、仏さまを目指して行くのが仏道ですよ。まずは、声がデカく厚かましいものが、うまく生きて、正直ものが馬鹿を見るということですが、本当にそうですか?私はそうは思いませんよ。昨日、始発駅で折り返しの電車を待っていたところ、横から中年のカップルが割り込んで来ましたよ。前に私を含めて3人居ましたが、いつの間にか女性が前にいて、降車する人がまだいるのに、割り込んで2人で最初に座り込んでいましたよ。この世では、人を押しのけても自分が座りたい席に座るということがまかり通ります。前にいた私を含めて3人も座れたんだから誰も迷惑は受けていないかもしれませんが、私も不快でしたし、他の方も何らかの思いがあると思います。一瞬不快になりましたが、あとは彼らの生き様です。彼がどうなるのかこれからどう生きるねかは、彼らが決めることです。バチがあたる?私はそんなこと望みませんよ。人にバチがあたることを望むなんて、そう思うこと自体が、浅ましい考え方です。悪い業を1つ積むことになりますから。善因善果や悪因悪果はこの世ですべてが叶うかどうかを含めて、仏さまの思し召しです。というより自分が作ったものを積むか、または軽くしていくかですよ。今回積んだものはこの世で返すのか次で返すのか、そのまた次で返すのかは、私にはわかりません。ただ、言えることは精一杯生きていると、気持ちが明るく晴れ晴れと軽くなるということです。他人はいいです。自分の気持ちは自分のものです。阿弥陀さまに観ていただけたらそれで十分なんです。南無阿弥陀仏。

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浄光寺の三浦康昭です。 くよくよと考えてもしかたがありません。明るく前向きに楽しく愉快に生きていくためのヒントを自分自身も考え続けながら、また少しでも皆さんのお役に立てればと考えています。できるだけ、わかりやすく簡単にお答えしていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。現在も整骨院をやっていますが、医療福祉関係の仕事に長年従事してきました。他に、知的障がい者施設の仕事に関わらせていただいています。また、イジメや引きこもりなど子どもたちのために何かできることがないか、現在模索中です。フリースクールをお寺で開講予定しています。仏教特に浄土学は死ぬまで研鑽だと思っていますが、居眠り専門なのが、課題です。

だからこそ因果ではなく縁を加えよ

最初から因果だ、因果だ、と思い込んでいるようでは仏教もただの運命論に堕してしまいます。
たとえば地震が起きた、原発が危ない。これはもう因果だから、もう諦めるしかない、という話ではありません。
最悪の結果になってしまった。だからこそ、それも今後の原因。次なる結果がある。次なる世代たちに快適な環境を遺す使命がある。
だからこそ、そこに「縁」を加えるのです。
運命から、使命に変える。
決まり切った運命だと思っているうちは「死に因果論」なのです。
使命とは命を使うと記します。(盛田正孝老師談)
この命をこの世の大きな因果の大河に縁を加えることで流れも変わるのです。
次なる明るい結果を目指して、そこで新しい縁を加えるのです。
畑にクワを入れれば、そこで耕されます。そこに種まきをするという縁を加えれば、それが因となって花が咲き、野菜の収穫、実りがあります。
あなたの中で、因果、原因結果が決まり切っているからそういう苦しい解釈になる。
ずる賢い人間や詐欺師、悪人がのさばる結果になってしまっている世の中だからこそ、本当にあるべき種まき、為すべき縁加えを今日、今から、あなたが為すのです。
共に、この世に縁を加えて、より良い結果、花を咲かせ、果実を実らせましょう!
その為に、今そこで虚しく思考にふけるのではなく、一手一行、何か行動してみてください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
誰かに何か悪いことをされた、だから自分も。。確かにこれではいけませんね。小学校の頃言われたようなことをやっと今本質的に理解したようや気がします。
自分は精一杯堂々と生きていきたいと思います。きっとそうすれば 自分の周りもそうなるような気がします!
自分と同じことで悩んでいる人もいると思うので、その人の為にもです!
ありがとうございました!

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