hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

この関係からやはり切るべきですか

回答数回答 1
有り難し有り難し 33

わたしには片思いの男性がいます。
その男性は共通の友人を通しての飲み会で出会いました。その飲み会では特に何もなく連絡もありませんでした。
その後、またみんなで遊ぶことになりました。そのときに2人で話す機会も増えて盛り上がったりもしました。
遊んで解散した後に、その男性から連絡がありました。
何回か連絡を取り合い、2人でご飯に行くことになりました。
色々話しをしました。男性は、地元で仲良しな女性にアプローチされているなんて話しも聞きました。
わたしはそのとき男性に好きという感情はあまりありませんでした。
その後も何回か遊びに行ったりしました。いけないと分かってて、ホテルに行ってしまったこともありました。
そのあたりからわたしはその男性のことを好きになってしまいました。
でも男性は、アプローチされてる子がいます。
なのでわたしは男性に、もしそのアプローチされてる子と付き合うことになったらその子に悪いから、もう会えないねと話しました。
GWのとき彼は地元に帰って、そのとき女性に告白されたそうです。わたしと会えなくなるのが嫌で、保留にしたそうです。
わたしも決意をしました。自分の気持ちを伝えようと。男性の誕生日も近いこともあって、お祝いをして、気持ちを伝えました。
わたしへの答えも保留で1日ゆっくり考えたいということでした。
男性は、地元の女性を選びました。わたしは当然の結果だ、と自分に必死に言い聞かせました。
ただ、わたしと男性は体の関係を持ってしまったので、友達に戻るのはかなり無理に等しいです。彼女に悪いからもうバイバイしようということと感謝の気持ちを伝えました。
でも男性はそれは嫌だと言ってきました。わたしはわたしで大切だから、終わるのは嫌だと。
2番目でも求められてることに嬉しくなってしまいました。
でもやっぱりいけないと思って、もう会うのはやめようと言いました。
男性は最初は拒んでいましたが、最終的には分かったバイバイしようということで終わりました。
いざ男性と関係を切ったら、心に穴があいてしまった気分です。自分からバイバイしようって言ったのに。
会いに行ってしまおうかなとも思ってます。
前みたいにご飯行ったりする関係に戻りたいんですけど、やっぱりいけないですよね。

こんな考えのわたしが幸せになれるんでしょうか。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

その女と別れて私と付き合ってよとゴリ押し

こんにちはメロさん。
なにイイ人ぶってんすか。ちゃっかり体の関係も持ってんだったら今さらカワイ子ぶっても遅いです。
ひたすら前進あるのみ。
二番になるくらいなら、キレなさい。
メロンパンナちゃんのメロメロパンチで相手をメロメロにすることです。
もし、浮気相手、遊びの関係にされそうならば「ざけんな!」と、メロメロパンチではなく、本気の顔面パンチで目を覚まさせましょう。そのくらいの強さを見せないと、あなたは一生男の言いなりです。尻に敷くらいでいいのです。よってくるオンナんざぁ結婚してなければ、追っ払えばいいのです。別に訴えられません。選ぶのは彼。選ばれなかったらご愁傷さま。2番手、浮気相手、都合のいい女になると、あなたのオンナとしてのプライドも尊厳も失いますので、それだけは絶対やめましょう。いっそ愛人になるくらいの方が、まだましです。お金も貰えますし。もちろんお勧めしません。都合のいい女にだけはなっちゃダメだっつうことです。
男をSIRIに敷く方法についてはsiriに聞いてみてください。 

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ