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信じていたのですが…

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以前、勤めていた職場の方から「いい話がある。」と、言われました。30万円をは払えばそのお金が増えて戻ってくる…だから半分だしあって戻ってきたお金も分けよう…と…その時はそんなうまい話は信じていなかったので、断りました。ただ、その方に私はお金を少額ずつではありますが、貸していました。お互い主婦で子供もいます。その方の口癖はお金がない…でした。
何度も言われて、私は15万円渡しました。その後は、全くその話をしなくなりまた。1ヶ月位たった頃に私の親が寝たきりになってしまい、介護が必要な為、仕事を辞める事になりました。なので、お金を返して欲しいと言ったのですが、もうしばらく待って欲しいと…
そして、私は仕事を辞めてしまったのですが、その後、連絡が取れなくなりました。私も、少し増えたらいいな…と、思ったのは事実です。でも、今、考えたら私は、バカです。
本当に今、自分が情けないです。渡した15万円の他に貸したお金も返してもらっていないです。でも、お給料が入ったら返してくれるだろう…と、信じていました。それが、今は連絡が取れなくなった事にショックです。12年、一緒に働いてた方だったので…その方を信じていたので…本当に自分が情けけないです。信じていた方に裏切られるのは辛くて…人間不振になりそうで…家族と話をしていてもなにか嘘があるのでは?と、思ってしまう自分がいます。私は、どうしたらいいですか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

授業料だと思ってくれてやりなさい、とは言いません。

昨日たまたま熊本から訪問客がありまして頑張っている人のためにお金を支援しました。
物資も送ったのであなたの額よりチョト多いです。今月は復興支援貧乏です。うちには子供が三人居ます。生活だって裕福ではありません。ホントは出さなくたっていいのですが、それでもお金に持たれないという方が人生裕福です。あなたも「寄付をしたならば納得できますが」と仰りたいでしょうが、私も熊本のために使ったのではなのです。布施のために私が私から手放すのです。僧侶だって布施をする。者に持たれないためです。あなたもそれは社会勉強、布施だとおもって、自分のお金に対する執着を手放す為に「捨てた」と思うことです。
ものは持つにしても持とうという意識無しに持った方がモノに持たれなくていいものです。
たから、もう、一度あなたから手ばなれたお金はいつまでもくどくど言わんことです。
東日本大震災でみんな赤十字などに寄付しましたが、結局悪徳な寄付を募る団体は明細を出しませんから詐欺です。何処にあのお金が消えたのでしょう?本当に復興の役に立っているのでしょうか?社員の給料にも充てられているという話すらあります。
私たちは従業員のために支援したのではありません。
震災の度に詐欺まがいのNPO法人が立ち上がる。
そういう意味では、日本人の大半はあなた以上に詐欺の被害者だらけなのです。
ですが、そんなクヨクヨしとらんでしょう?
嘆いて自分を苦しめるよりは怒って、それをエネルギーとして、本腰入れて本気で奪還することです。
嘆く暇があれば怒るべき相手に怒りをぶつければイイ。もっと本気になりなさい。
ヌルイこと言っていたり、泣きごと言ってたら金は返ってこないのです。
そして、今後慎重になればイイ。
諦められるなら明らめる。人に金を貸すならあげたつもりで貸す、というのは世のならいです。
でも金を本当に取り返そうと思ったら、サラ金、ヤミ金の取り立てのようにもっとガツンといかないとダメです。裏切られたことをいつまでもクヨクヨ言ってちゃいけません。
ガツンと、どんな手を使ってでも、取り返せ!!訴えるぞ!と脅しをかけろ!取り立てろ‼家を突き止めて張り紙を貼れ!!と言いたいです。笑
あ、私は弱いものの見方です。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

早速のお返事ありがとうございました。すごく言葉が心に突き刺さりました。

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