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狐憑きについて。

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私は小さい頃、お寺でお祓いをして頂いたことがあります。

その時、住職の方が「悪い狐では無いけれど狐が君に憑いていた。」と私に言ったことは大きくなった今でもはっきり覚えています。ですがなぜお祓いに行ったのか。お寺までの道のりは全くと言っていいほど覚えていません。

1度、憑かれた人は憑きやすくなると聞いたことがありますが私のようにお寺でちゃんとお祓いをして貰った人もそうなのでしょうか?
心配なのはお祓いをして頂いたお寺が今は無いことと最近ますます「狐」と言う言葉をふとした時に頭によぎったり、夢にそのお寺の住職と小さい頃の私、そして私の側には真っ白な狐がいる夢をみます。

私が気にし過ぎなのかもしれませんがまた狐に憑かれたのではないか心配です。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

大丈夫です!

小さい頃の衝撃的なことは断片的ながら、鮮明に思い出すことができるものですね。あなたのお気持ちはわかりますよ。わたしも5歳の時に大行者の方からこの子は立派な先達、お坊さんになれると言われて修行を始めたんです。8歳の時にお不動さまを観て、一心にお不動さまを祈り、この頃は神童ではないかと(笑)30年やってきましたが少しもものにならず、45の時に40年経ってから自分の不甲斐なさと、とても道が結実することのない絶望感から、他力の教えにすがり、もうすぐ還暦ですから、まあ、半世紀やってきたことになりますよ。大行者さまはほんとうに全てを修行に当てているような立派な方でしたが、まさか、不肖の小僧は道半ばにして挫折するなんて思いもよらなかっんじゃないですか。浄土で笑ってますよ。浄土でたぶん喝をいれられますね。ごめんなさい。立派なお坊さんにはなれませんでした。ダメダメ、役立たずのだらしないけれども、一応、坊さんになって住職です。だから半分あたりで半分はハズレですかね。お師僧さまからしたら、大阿闍梨にならなければいけないのに、挫折、転派して今があります。だからこそ、落ちこぼれの気持ちはわかりますよ。痛いのや辛いのや、苦しいのも、もう御免です。無理はしなくていいんだよ。せっかく賜った生なのだから、明るく楽しく伸び伸びと、誰の言葉も、わたしの言葉もね、気にしないで幸せに生きてください。そのご住職さまも同じような気持ちだったのではないでしょうか。狐がつこうが、何がつこうが、あなたの魂です。あなたの人生なのです。気にしないで精一杯生きてくださいよね。憑かれと思うのは魔ですよ。心に付け入る隙です。あなたの魂はあなたのものです。誰も奪えませんよ。そう信じるのです。秘訣はわたしは大丈夫。わたしはわたしの人生を楽しく生きるんだ!と明るく大きな声で宣言してください。毎日ね。あなたの人生が美しく華やぎますよ。保証します。どうか幸いあれ!浄光寺

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浄光寺の三浦康昭です。 くよくよと考えてもしかたがありません。明るく前向きに楽しく愉快に生きていくためのヒントを自分自身も考え続けながら、また少しでも皆さんのお役に立てればと考えています。できるだけ、わかりやすく簡単にお答えしていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。現在も整骨院をやっていますが、医療福祉関係の仕事に長年従事してきました。他に、知的障がい者施設の仕事に関わらせていただいています。また、イジメや引きこもりなど子どもたちのために何かできることがないか、現在模索中です。フリースクールをお寺で開講予定しています。仏教特に浄土学は死ぬまで研鑽だと思っていますが、居眠り専門なのが、課題です。

守護神だと思う

何かに憑りつかれたかのように、心が虚ろな様子をキツネに憑りつかれたとか、つままれたなどと昔は言ったものです。
そういうツキモノに振り回されないのが一番イイのですが、何年も引きずっているということは思い起こす機会が多いという意味として憑かれていると言えましょう。
狐は悪いものではありません。
❶今の永平寺の禅師さまは豊川稲荷のご出身で豊川稲荷は狐にまたがったダキニ天という神様が祀られています。仏法の守り神です。
❷余談ですがジミ・ヘンドリックスの名曲FOXY LADYという曲があります。
最高にオシャレな、ステキな、女性という意味です。
❸BABY METALも今や世界的に大人気でキツネパワーで魅了させファンたちを憑りつかせています。
❹クリや山菜を運んできてくれるのも、きつねです。(ごん、お前だったのか)
まず、あなたが悪いことにしないことが第一歩目です。
憑くということは、言い換えればこちらの心が虚ろになっていて、何かに付け込む隙を与えているということでもあります。
心をしっかり定めたいならば坐禅を学ぶことです。そうすれば、きつねも色々な神様も乗りこなして調伏させることができます。守護神・憑き神とは心の中の作用・働きです。心の中の作用も禅定力で転じて活路に導くのが禅です。
外の出来事に善悪をつける前のそれとして観て、物事に動じなくなる。物おじしなくなる心が坐です。
内なる思いにあれこれ乱れることなく、ここ度がふらつかんようになることが禅です。
先日、ワイフがママ友のゆうこりんと定食屋さんでランチをしました。
ゆうこりんは、せっかくソバ定食を頼んだのに、
「うどん定食お待ちー(-.-)」出てきたのはうどん定食。
狐そば?狸そば?赤い狐?緑のタヌキ?運ばれてきたのはお蕎麦ではなくうどんだったりします。
「アタシの来ーん!」と文句を言っても幼稚園のお迎えに間に合わなかったので、ゆうこりんは黙して店員に文句も言わず頂きましたのよ、おうどん。
このように、衝撃でキツネにつままれたような顔一つせず、サラリとことを瞬時のうちに転じてしまう力。
泣き寝入りも狸寝入りもなく、さらりと過ごすことがキツネにもタヌキにも憑かれない定まった精神、おだやかなる心です。
ごん、お前だったのか。いつも注文をまちがえたのは。
店員は憑かれて、いや、疲れていたのでしょう。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お礼を書くのが遅くなってしまいすみません。

狐が悪いものではないことが分かり、すっきりした気持ちです。狐が守護神だったら少し心強い気がします!
私の側に狐がいてもいなくても私らしくこれからも生きていきます。

ありがたい意見ありがとうございました。

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