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祖母について

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はじめまして。
突然ですが、ここ最近悩んでいることがあります。
それは、祖母(80歳後半)のことです。
祖父母たちの隣にすんでいるため、何かと頼まれることがあります。
しかし、父も私も可能な限りは聞いてあげるのですが、一番に負担がかかっているのは私の母です。
母も余り身体が丈夫な方ではなく、パートの傍ら通院をしています。
ほかの親戚たちは、家の母が祖父母の面倒を見て当然と思っているのか、手は出さずに口ばかり出してきます。
ボケの入った祖父母の虚言に悩まされ、親戚たちの責任丸投げに悩まされ、母の具合はここ最近悪化してきています。
このままではいけないと、父とも話しているのですが、父も母が面倒を見て当然と思っているようです。
私も仕事上、家よりも会社にいる時間のほうが長く、母に申し訳ないです。
やつれていく母を、見たくないです。
そうとなると、親戚や父、祖母が憎くてたまらなくなります。
いなくなれば良い、と何度も思いました。
仕事を辞めようともしましたが、会社の都合上辞めれないんです。

私は、どうすればいいのでしょう?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたの気持ちを打ち明けてみてはいかが

あなたがおっしゃる、会社の都合上会社を辞めることができないという状況であるならばあなたがおばあさまの介護を行っていくのはほぼ無理でしょう。
お父様にも仕事があり、お母様の体調を鑑みてもおばあさまの介護は不可能かと思います。
おばあさまがどのような状況であられるか詳しいことは存じあげませんが、家族や縁戚のみなさんでおばあさまを見て行くことができないならば施設や医療機関を頼る必要がでてくるのはある意味仕方がないかもしれません。
おばあさまはその辺りはどう思ってらっしゃるのでしょうか?。
あなたの心に沸々と溜まっているおばあさまへの思いをおばあさまへ直にお話されてはいかがでしょうか?。
話しをしなければ理解してもらえない状況は多々あると思うのですが…(((((((・・;)。

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個別相談可能
みなさん、こんにちわ。童楽寺の副住職の小林裕淳(ゆうじゅん)といいます。悩み事が生まれては消え、そしてまた生まれては消えていきます。そんな私たちの日常…。 その中にいる私自身も生きることに悩んでいる1人です。悩みからの解放のためあなたと一緒になって楽しい日々作りをしたいと思います。宜しくお願いします。
この世を生きることは悩みの中に生きることになります。そのお悩みが見方を変えることで楽になればと願います。 辛いに横一字を足せば幸せになります。あなたのあともう一歩が幸せになりますよう願うばかりです。 歩んで行きましょう。 お互い無理せずに。

負担にしない 考え方

まず、お母さんにはこの内容を直接お伝えすることで、お母さんの心理的負担が激減すると思います。
あなたの質問のそのまま文章でお伝えなさると、あなたの気持ちがそのまま伝わると思います。
本当は、介護というのは誰がみるとか決まりはありません。
自分の親の面倒は育ててもらった子供が看るべきでしょう。
お母さんにはお母さんの親の面倒もあるでしょうから、お父さんにはそこのところを良く分かってもらうべきです。
親戚さんたちには祖父母が認知症であらぬ事を言われて困っています、と助けを求めることで誤解は消えると思います。だた、表明するだけでなく、その次の行為である、助けを求めるということが重要です。
人間なんだかんだで面倒臭いことはやりたがらず、悪しざまに口だけは出すという愚かな一面があります。それをあなたが心得ておけばそれほど問題は無いと思います。
それよりお母さんには無理をさせないで、できる限り手伝ってあげて父親にも自覚を促すべきです。
怒りをぶつけても良いと思いますよ。お父さんが全く何もしないというのなら、そうなったいきさつがあるのでしょうから問い詰めてみると良いかもしれません。
もっと大切なことは、負担にしないようなものの見方をあなたもお母さんも養うことです。
それをする事によってメリットを探しましょう、楽しい語らいをする機会を持ちましょう親子や家族のきずなを深めましょう。
家族って、家族だからこそ、ワタクシ意識が強くなって互いに傷つけあってしまうものなんです。
ちょっと距離を置いてみましょう。
それぞれは、もともと個人と個人です。
深く関わりすぎて、抜け出せない家族ではなく、一線距離を置いてお互い自由だからこそ助け合える良い距離感があります。お母さんがやっていることを見倣ってあなたができる事は変わってあげて、お母さん以外の人にも介護に携われるように働きかけてみましょう。

同じことをするにあたってある人には苦痛になる。つまらなく感じる。
ある人は楽しんでやる、楽しい所を探す。
同じ事をやっていても生き生きしている。
嫌なことほどそういう姿勢って大事です。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

そうですよね。
思いは言葉にしないと伝わりませんものね。
私のつたない言葉が家族親戚に伝わると良いのですが…。
当たり前の事を聞いてすみませんでした。
ありがとうございます。

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