hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
そらノート 亡くなった人やペットに思いを伝えよう hasunoha姉妹サイト登場

信じる、自分を、そのために

回答数回答 4
有り難し有り難し 25

自分を大切に信じられるようになりたいです。

考えの幅を超えて、自分軸を大切にしていくために日常的に行えることはありますか?

なんでもアドバイスいただきたいと思います。
おねがいします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

正見 自分の考え越しにものを観ない

見えること、聞こえる事、五感で体感することは真実ですから、信じようと信じまいと誰でもの❝確かな❞様子です。
確かな事実ですから、そこに信じるも信じないもありません。
たとえば私の目の前には今、ハエが飛んでいて、子供がドタドタと歩き回っています。
これは信じようが信じまいが「確かな事」です。
もし、そこに余分な私的はからいを起こして、ああ、邪魔なハエめ、こらこら足音がうるさいぞ、と自分の都合を起こして問題視すると、たちまち世界はその美しさを失います。
ここでいう美しさを失うとは、人間的なはからいが介入されることを言います。
生きているということはただ、純粋に五感を駆使することだけです。
この五感だけで生きていれば何の迷いもありません。
古代インド人から我々現代日本人にいたるまで全人類は、そこに想念(思い・マインド・思惑)を加える。だから迷いや苦しみが生じるのです。 ⇔ 信
たとえば眼の話だけで申し上げますと、
ものを見る時、
眼は「見る・視る」 ということをしているだけです。
みたものに対して、評価や好き嫌い、コメントを付着させるのはアタマです。
アタマの中では「観る(思う)」ことをしています。
みたものに対して「思いやイメージ」をコピペ、ペーストします。
たとえば「あ、前にみたものだ」とか「また…、いい加減うんざり」という意識は、仏教的には間違ったものの見方です。前の思いを瞬時にコピペしてるんです。
目玉や耳は、今日初めてそれを体験しているはずです。それが正見、正聞、正体験とでもいうべきものの受け止め方です。
目玉でみるのは、私的意識はありません。好き嫌いもありません。
見たくないものがあっても、目玉には映ったトタンに見てしまいます。
これは当たり前のように感じないでください。禅・仏教において究極的なポイントなのです。
❝眼は好き嫌いをしない❞
❝眼は思う前にそのものを映し出す❞
❝眼は心で素直になろうとせずともそれ以上に素直にものを見る❞
ここで気づいて頂きたいのは、目は考えとは独立していて、ものを24時間、映し続けている、ということです。そしてそこに思いの上でやるような好き嫌いや、良い悪いを持ち込まない、という在り方でものを見ているということです。
自分の思いを持ち込まずにものを見る。聞く、話す、過ごす。
考えではないのですから、自分軸そのものでしょう。

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが子供達の笑顔になりました


丹下覚元(たんげかくげん)
☎お悩み相談 質問 📞08020659278 どなたでも。

信じるって難しい。

あゆみさん

10代で「自分を信じる」とか「自分軸?」というようなことについて考えられるってすごいですね。
私は10代の頃考えたことなかったように気がします。笑

自分ってなんなんでしょうか。

ちなみに仏教では、私が考えているような私は存在しないと言うようです。
仮に、いま、こうしてここにある、というような感じです。

ですので、質問の答えは大変難しいのですが、考えの幅を超えて、自分軸を大切にしていくには、

・自分という確か存在はないということを知る。
・確かな存在はないのだけれども、さまざまな影響(ご縁)の中に生きている、という事を知る。
・ご縁の中にある自分を精一杯生きる。

ということが大事なのかなぁという気はします。
特に、精一杯生きるということが、日常の行いになってくると思います。

いかがでしょうか。

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが子供達の笑顔になりました


好きな食べ物はスイカです。

自信について

あゆみ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

自分を信ずることができれば、それが「自信」ということになります。ですので、これが自分というアイデンティティーを成り立たしめているもの(例えば、目標、夢への取り組み、できること、得意なことや技量、資格等)を確立させていくことが、やがて「自信」へと繋がっていくのではないだろうかと存じております。

あゆみ様にも、目標や夢がありますでしょう。。いずれにしましても、自信というものは、その目標や夢、より良い人生や幸せという結果へと向けての一つの条件や原因としていくべきものであって、それは日々の精進努力を抜きにして成り立つものではありません。仏教でもこの因果の法は何事を考える上でも大前提となってございます。

それと、「考えの幅を超えて」ということが少し気になりましたが、例えば、何か幸運や偶然の突発的な出来事による変化を期待するのではなくて、しっかりとご自身の思考の中で思い描いておられる結果へと向けて、同じくご自身の思考の範囲内にて、現実においてできることをできるだけコツコツと取り組んでいかれるようになさられるのが、やはり良いのではないだろうかと存じております。

また、自信につきましては、これまでにも下記の各問いに回答させて頂いておりますのでご参照下さいませ。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/自信

また、同じような問いと致しましては、下記のようにお答えをさせて頂いております。

問い「どうすれば自信がつきますか?」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002972293.html

「・・あなたご自身も、元々優劣はありません。優劣は、ただ色々な関係性の中において一応は相対的に判断ができるものの、実体として、固定して捉えることができないものであります。あなたご自身はあくまでもあなたご自身として、現実に即してやれること、できることで頑張っていかなければならないのであります。・・」

上記のことは、既に石橋晃倫様もおっしゃておられることにある程度近いのではないかと存じます。

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが子供達の笑顔になりました


川口 英俊
チベット仏教 ツォンカパ大師中観思想・後期二諦説の研究

簡単な方法は・・・。

 取り敢えず、簡単な方法は一言でいうと「自分を大切に思っている人を大切にする。」ことです。
後、ワシは禅宗の僧侶ですので、坐禅会に近くのお寺に行くことです。探してみて下さい。

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが子供達の笑顔になりました


ちょい悪坊主を目指しています。尊敬する人は一休さん。

「自分とは・自分を何とかしたい」問答一覧

どうしたらいいかわかりません

自分のしたいことより、すべきことをするべきだと考えて近頃行動してます。 自分のすべきことをしないと、まちがっていると思います。常に正しい行動をとらねばならないと思っていますが、ときには、まちがった行動をしてしまうようです。 今日は、たまたま早く晩御飯が済んだので、旦那が、お茶をしようと誘ってくれて紅茶を飲んだのですが、それがまちがっていたおもいました。みなければいけないテレビがあったので、それのために紅茶を飲むのを断って、早くお風呂に入ればよかったのです。それはわかっていたのですが、私が私のすることより旦那のすることのほうが正しいという考えがあり、旦那の提案に乗ってしまいました。でも自分を信じればよかったです。 でも努力はしました。間違いにすぐ気付いて、テレビを見るために時間気にしてお茶飲んでいつもより早くお風呂からあがりました。番組には間に合いましたが、お茶を飲んだという行為が、間違ってたようで、その後、やはり私が悪いと感じることがありました。 けれども、本来人間は自由なはずですよね。人に迷惑をかけない限りは、何をしても自由だと、憲法でも保証されていますよね。 いつも自分の行動がまちがっていないか、正しい行動ができているか、自分自身を監視することに疲れました。 間違ったことをしたと思ったときに人に相談すると、それはおかしなことではない、と言われるのですが、その後に眠れなくなったり、悪いニュースがあったり、人からひどい扱いを受けたりするので、信じられません。 何が正しくて、何がまちがっているのか、もうわかりません。 病院にはすでにかかっていますので、医者に相談したほうがいいなどというご意見は求めておりませんのでよろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 9
回答数回答 1

私の意識とはなにか

 以前、死が怖いと相談させて頂いた者です。ご回答を頂いて以来、それを胸に、心の持ち様や認識を変えたりして、素人ながら試行錯誤しつつ、死をどうにか受け入れる練習をしています。  しかし、死について考えると、私の今ある命や意識は、そもそも最初はどこからきたのだろう?と考えてしまうのです。肉体は勿論母から生まれましたが、生まれる前、私の意識(精神)はどこにあったのでしょうか?生まれる前、というのは、死んだあとと同じなのでしょうか?  これを考えだすと、生きていること(意識があること)それ自体が気持ち悪いように思えてしまうのです。なぜ今、私に意識があるのか?と考えてしまいます。なんというか、常に、ゲームの世界の住人のような気分?なのです。私は、誰かによって作られた世界の中に放り込まれ、意識が芽生え、それ故に死の恐怖に苦しみ、そして必ず死ななくてはならない。宇宙規模で考えれば些末な出来事であるけれど、私という個人にとっては、その事実がとても怖く、苦しいのです。こんな理不尽耐えられない、と思って、どうしてもこの世界の仕組みを恨んでしまいます。  私の意識とは一体なんなのでしょうか。そして、生まれる前はどこにいて、どこに死んでいくのでしょうか。私の意識はどうなるのでしょうか。  そして、そんな恨んでしまうようなこの世界を、どうしたら愛せるのでしょうか。大切な人と出逢っても、必ず最期に離れ離れになってしまう。私が愛した「私」も、必ず消えてしまう。日々の小さな幸せを感じるほど、死というこの世界との別れが辛くなり、恐怖で押しつぶされそうです。  それでも折角いただいた命を生きぬかなくてはならない、と思うのです。生きぬくために、どうかご助言をよろしくお願い致します。まとまりがなく、分かりにくい文章で申し訳ありません。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

自分が正しいかどうか判断ができません。

はじめまして。 はじめて質問させていただきます。 相談内容はタイトルの通り、 自分の意見が正しいのか、そうではないのかわからなくなってしまうことです。 たとえば、 人と意見が食い違った時、 自分の意見を大切にすることができず、自分が間違っているんだと思うことがよくあります。 その場で思っていることを言う時もあるのですが、あとからよく振り返ってみると、自分の至らなかった点、私が知らないであろう相手の気持ちや背景、理解してあげられない自分のせこさなどを考え、とことん自分のことが嫌になり、結局相手の意見を飲んだり、どうにかこじつけでも相手の意見を理解しようとしてしまいます。 ですが、友人に話してみると「いや、あなた(私)が怒って当然でしょ」と言われる時もあり(もちろん私サイドからの一方的な話だからと言うのもありますが)、そのように味方が一人でもできると、「やっぱそうだよね?」と自信が持てるのですが、情けないことに私一人だと判断ができません。 たぶん、このように思うようになったのは、数年前に大好きだった彼と上手くいかなくなってしまったあたりで、嫌われたくない、別れたくない一心でそうやって心を押し殺していた癖がついたのでは、と思うのですが、そればかりを言い訳にはできません。 私は私なりにできるだけ、相手の気持ちに寄り添うようにしているつもりなのですが、何かの拍子にその相手から「こんなこともしてくれないのか」「何でわかってくれないのか?」と言われると、私は私で努力してるつもりなのに、何がそんなにいけないんだろうと、悲しくなります。 そして、その度に、正当な理由と意見を持って、堂々と立ち向かいたいのですが、自分の意見が間違っているのでは、私の心が狭いだけなのでは、相手が傷ついたらどうしようという気持ちから結局黙りこんでしまいます。 どうしたら良いでしょうか。 いろんな質問があるなか、お忙しいとは思いますが、どなたかアドバイスを頂けると幸いです。

有り難し有り難し 21
回答数回答 2

自分の意思を尊重してきた結果社会性がない

いつも様々な質問、回答を拝見しております。 早速の質問ですが、私は10代のころより自身の自由意志に価値を置いて生活してきました。 一言で言うと「周りに流されない」「我が道を行く」というやつです。ポリシーとも言えるかと思います。 他者が自分をどう思うかより自分がどうありたいかを価値基準とし、決断の柱にしてきました。 とはいえ、元来基本的には他者との関わりは好きで温厚なほうでもあると思うので、学生時分までは周囲との軋轢もなく過ごしてきました。 しかし、社会人になってからは周囲との考え方が合わなかったり、納得できないまま仕事をすることが増え、自分の意思が反映されない生活にストレスを感じています。 長い物に巻かれるのが当たり前の現代社会で、私のような社会性のない人間はつまはじき者で、会社でも疎まれているように思います。 組織人として生きていくのはどうも難しそうです。 私の考え方が間違っていたとは思っていませんが、少しは自分よりも他者の考えに価値を置き、社会性を磨くべきだったのもしれないと、してもしようがない後悔に苛まれることがあります。 自分の意思を強く持つべきだとは今も思いますが、それを貫き社会生活の中で苦しんでいるのも自分です。 このように生きてきた私が、集団の中で生きていくための心構えについて、心に留めるべき仏さまのお教えはありますでしょうか。 とりとめのない内容ですが、こんな私にぜひ仏教的な目線でも、お坊さま個人の目線でも、ご意見いただけると幸いです。

有り難し有り難し 9
回答数回答 2

自分と向き合ってれば良いと言うアドバイス

とある競技を何年か前から好きで続けていますが、休暇が少なく土日は絶対に休めないため、週末にある大会やイベントに出てみたい、または見学だけでも、と思ってますが実現は出来ません。 時間ができれば練習して、自主でトライしてみて、自分で満足?してと言った感じです。 共通の趣味の友人が一人だけいますが、彼はイベント常連で仲間もたくさんいます。成績も良いので人気者です。 時間や境遇に限界があるので、自分で出来る範囲で楽しみたいけど、邪念?にとらわれてしまうと辛いとその友人に相談した所、 自分とだけ向き合ってれば良い と言われました。 全くその通りなのですが、仲間とたたえ合ったり、実際に競い合う仲間は大切なんだと言い、刺激になるからと自ら赴いてる、SNSにも沢山アップしたり、自分と真逆な、周りからの承認で満たされてる友人のアドバイスが頭では分かってるけど心では実行できません。もちろん努力あっての実力者で人気者なのは重々承知です。アドバイスしてもらっといて反発してるのもどうかと思いつつ納得できません。 友人と違って成績は良くないので活躍は出来ないとは思いますが、他の人は仲間と楽しくやっるのに 、自分だけ自分自身だけで納得?しなきゃならないのかと思うと切なくなってしまいます。それとも好きなとこをするのに友達や仲間は要らないのでしょうか? ずっと一人でやってるようなものなので憧れてるだけなのでしょうか?(友人にとって私は大勢の中の一人なのと、自分のほうがスキルが下なので基本的にはあまり相手にはしてくれません) 好きなとことをやれてるだけで幸せなのをもっと実感したいです。一人でも上記のことに落ち込まずしっかり楽しめるようになるのはどうすればいいでしょうか? かなり贅沢な悩みだとは思いますがよろしくお願いします。

有り難し有り難し 8
回答数回答 1

物事をやりたくない時に動くと腹が立ちます

私は何事においてもそうなのですが、やりたくなくて仕方がないという心がいつも湧きます。(やれる時もありますが) 例えば洗い物や、料理、こなさなければ行けない用事など。今は専業主婦ですが働いていた時はもっとそれがありました。 もちろん誰でもその気持ちは湧くと思うのですが、自分はとにかく不機嫌になり少しでも邪魔されよう物なら物凄い剣幕で怒っています。時間指定されると尚更です。 働いていた時は理性が働き我慢をしていましたが、それにより鬱病になり前頭葉が縮んでしまっていました。 それに困り果てたのでお坊さんの本を読み座禅や深呼吸をしたり、家事を作務だと考えるようになりました。 しかしそれでもやりたくなくて仕方がない時は「そもそもなぜいちいち座禅をしたり作務だと考えたり深呼吸をしないといけないのか」とそれらをやることすら怒りになってしまうこともあります。 やらないでも生きてのけている人がいるのでなぜ自分はここまでしないと行けないのかという思いが湧きます。 自分自身でも自分に疲れてしまいましたし、怒られる配偶者が可哀想です。 どのように考えることでこの悩みから脱することができるのでしょうか。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

関連する問答

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る