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怒りはどうしたらいいですか

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有り難し有り難し 11

5ヶ月前に幼い子供を持つ妹を亡くしました。
ガンでした。
亡くなる2ヶ月前に終末期の宣告をされ、
1週間前には医師からいつ呼吸が止まってもおかしくないと言われていたようです。

妹の主人である義弟は 廻りに住んでいる私たち親兄妹にはまったく伝えず、離れて住んでいる義弟の両親のみ知っていました。

最初は怒りが湧きましたが、亡くなった妹や姪たちを思えば、言い争っても しょうがない事と思い、子育てに協力しようと思っていました。

しかし、姪が「おばあちゃんとお話しない」と言っているのを聞いて、義弟に話を聞いてみると、妹が生前に「小さい頃
母に甘えられず悲しい思いをした」と話したのを、妹の死は母のせいだと姪たちに植え付けていたようです。
また、亡くなって すぐに再婚の話(娘の為に建てた家を もし再婚の時は他の場所に住んで欲しい、それは妹と隣に住む他の兄妹のためでもあったからです。)をした母を許さないし、謝るべきだとも言っています。

確かに母は、話し方がキツイく、私たち兄妹も嫌な思いをしたことはありますが、その事を恨んではいません。
それは姉である私がよくわかりますし、孫まで遠ざけられる母がかわいそうでなりません。

一旦はなんとか付き合って行かなくてはと思っていましたが、怒りがまた込み上げてきました。
義弟はずっと休職をしていて 私の両親から家と車と生活費(今は全部 義弟が相続しましたが)を面倒をみてもらいながら、なんでそんなことができるのかわからないです。色々考えだすと、妹にわざと遺書も残させないために、私たちに言わなかったのでないのかとさえ思えてしまいます。
これから、どうやって付き合って行くべきでしょうか。
喧嘩をして姪たちと疎遠になってしまうのは本意ではないです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分がやっていることに目を向ける

あなたがやっていることに自分で目を向けてみましょう。
あなたの事を悪く言ってはいません。
①孫(姪)に罪はないが、ああ何とかしてやりたい。
②義弟には憎しみが生じ、ああ、許せない。
③妹に憐れみが沸き、ああ不憫でならない。
④母にも憐れみが沸く、ああ、可哀想に。
⑤自らには苦しみが生じる、ああ、苦しい。
本当に苦しいことと思います。
これら5つの問題を同時に解消するには、まず「退くこと」です。
退くとは、相手に対してワタクシ意識を強く注がない、持たないこと。
家族であっても、深く干渉すべきでないことはあります。
悩み苦しみは相手をワタクシすることから生ずるからです。
義弟さんへの支援は、今後は相手のご実家からにしてもらうことにして、お孫さん(姪っ子さん)への学資金を特別に口座を作ってためておいてあげてはいかがでしょうか。義弟さんに対しては不信感があるでしょうから。
親族の結婚相手というのは、血のつながりがないですから、親族の縁が切れた途端に他人になったり、疎遠になったり、うまくいかないケースが多いですね。アナタは本音で生きていると思いますし、今まで培ってきた関係がそうだったのですから、そういう結果に到るのも無理はありません。
ですが、100歩譲って義弟さんにも言い分はあるでしょうから、聞く耳だけは持っていてあげてください。
不思議な事にそんな相手であっても一応、妹さんがお選びになったお相手です。
その邪推が確信に変わらない限りは、あなたの妄想です。
「怒りはどうしたらいいですか」という問いの答えとして、まず相手に悪しざまに言ったり、思えば、その怒りの負のエネルギーによってあなた自身、自らを傷つけるものです。妹の為にも、義弟があなたの想うような悪党であっても、姪には父親は必要です。
姉妹であっても性格も考え方もパートナーも違う。
あなたのものはあなたのもの。
親のものは親のもの。妹のものは妹のもの。
あなたが所有しなければ良いだけです。
あなたの家族は妹であって、姪であって、義弟は、亡き妹さんの夫です。
姪っ子さんが助けを必要としていない限りはあまり関与し過ぎない方が良いと思います。
相手方のご実家と法事等でお会いするでしょうから、よくよくお話をして、あなたの思いもお伝えされると良いと思います。
最後にもう一度、相手を憎めばその憎むエネルギーで自分を苦しめます。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます
お礼が遅くなり すみませんでした。

あまりにも その通りだと思い、心が軽くなり 考え方が変わりました。
なにより、この文だけで 私の悩みがわかって頂けるか不安でしたが、文章以上に理解して頂いていることにビックリしています。
時折、無意識に同じことを考えてしまいますが、その時は ご回答を読み直しています。

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