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縁は与えられているのか

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縁というのは与えられているのか
疑問に思いました。
それは愚痴や不安を思っているときに
ふと気づきました。

いまの目の前ある小さな小さな縁を
信じ、受け入れることで
よい方向へ進める気がしてなりません。

こっちだよ、こっちにおいでと
縁を通じて何かに引っ張られているような
見えない力を感じます。

縁というのはご先祖様や守護霊様などの
見えない力が働いているのでしょうか?
私に必要な何かを与えて下さるのが
縁なのでしょうか?

縁というものを教えて下さい。
どうかお願い申しあげます。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

縁加え(えんぐわえ)

結果には原因がありますから、今の結果の背景には必ずご先祖さまや、おじいちゃんおばあちゃん、お父さんお母さん、すべてがそれなりに関わっていると言えます。
縁とは働きかけ、かかわり、関係性、つながり、結果をもたらす作用。
この世の、すべてはどんなものも授かりものです。
それに気づいて、すべてを恵み、授かり、布施として与えられていると気づかれたのであれば、それを活用、活かしていくべきでしょう。
どんなことも縁ではありますが、縁❝まかせ❞ではいけません。
自分の命運は自分で決める。それが命を運ばせるということであると言います。
つまりは、自分自身も縁ですから、縁の働きかけ、❝縁ぐわえ❞をすることができるということです。
これが縁に縛られず、自ら縁を生み出していく生き方を見出すということです。
小麦粉に、水を加えてこねるという縁を加えなければ、うどんにもパンにもなりません。
いくら上手いパン屋でも小麦をこねて、焼かなければパンはできません。
やろう、作ろうと思ってもパンはできません、思っているだけではだめなのです。
働きかけ、行動、実行をして初めて、実際の世界は変わっていくのです。
何がよい縁になるか、悪い縁になるかはわかりません。
というより、もともとどんなことにもヨイワルイが無い、ヨイワルイは人間のあとから下す評価、判断です。
どんな縁も波を乗りこなすように、こなしていきましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

「縁」について

歩美様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

この度の「縁」に対するお気づき、誠に有り難しでございます。

これまでに、拙生も下記の各問いにて「縁」について扱わせて頂いて参りました。ブログのタグとして上位になっておりますように、非常に重要な概念であると存じております。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/縁

「縁」とは、簡単には、「縁りて」のこととなり、何事も必ず「○○に縁りて成り立っている」としての依存関係のことを示すことになりますが、既に丹下様もおっしゃられておりますように、因縁果の理として、この世のモノ・コト、つまり、存在・事象は全て、因(原因)・縁(条件)・果(結果)の流れにて成り立っているということでの縁(条件)を措定する方が、わかりやすいのではないかと存じます。

見えない力云々は、あまり深くはお考えになられることはないでしょうが、とにかく無数の因縁、依存関係により、私たちは成り立っている、無数の因縁によって生かされて、生きていることができている次第でございます。

問い「後悔の気持ちが消えません」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1008386833.html

『・・とにかく、この世は「縁」によりて「起」こっている、「縁起」なる世界、何事も因・縁(原因や条件)次第となります。確かなる因・縁を調えていくことで、しかるべく結果も望めるというものとなります。・・』

問い「孤独感を無くすためにどうしたらよいですか」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1008152724.html

『・・何事も「縁」次第であり、より善い縁へと向けた努力がより善い結果へと向けても必要なことになります。・・』

善き結果を望まれるのであれば、善き因縁を調える努力がもちろん大切となります。日々の行いにおいて善き因縁が調えられるように頑張って参りましょう。

どうかお幸せを祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

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